2012年3月11日      大斎節第3主日(B年)

 

執事 マタイ 出口 創

神さまの熱情が宣言を現実にする
「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」【出エジプト記20章5節】

 「作ったお弁当をごみ箱に捨てられ続けても、毎日作り続けた娘をねぎらいたいと思います」。先日、朝日新聞の投書欄に掲載されていた、大阪府に住む60代の女性の投書から引用しました。この方の孫息子さんは、中学時代から荒れて、母親への反抗からいすや掃除機など物を投げたり壊したりの日々を過ごしながら、徐々に落ち着き始め、高校時代は、「勉学はほとんどせずじまい。でも高校生活3年間を皆勤で通し」たそうです。そして「こうして体が丈夫になったことが何よりもうれしいのです」と記し、そして冒頭に引用した言葉に続きます。

 熱情の神というと、とても激しい気性の神であるような印象を受けます。確かに激しい一面はあると思うのですが、それだけではなく、この母親が捨てられ続けてもお弁当を毎日作り続けたような、神さまの根気というか、持続している決意や覚悟も、注目したいと思います。激しさと、持続している決意や覚悟の両方を併せて、『熱情の神』と、ご自身を表現なさっているのではないでしょうか。

 今日私たちは、東日本大震災発生からちょうど1年を迎えます。日本聖公会では、『東日本大震災から1周年を迎えて』という日本聖公会主教会書簡が、全ての教会で朗読されていますし、他教派でも多くの教会で、東日本大震災に触れた説教がなされていると思います。私のように366日前と変わらない生活を送っている人の中には、一種の罪悪感さえ覚えている人もいます。
 でも、福音の宣言は今も、人びとの口を通してなされます。その宣言は今も、『熱情の神さまの宣言』であり、そして「光あれ」と言われれば光が生まれるように、現実化する宣言です。

 ですから今日私は、多くの困難や忍耐に押しつぶされそうになりながら、日々生活せざるを得ないでいる皆さんに、あえて、次の聖書の言葉を引用し、宣言します。この宣言が『熱情の神さまの宣言』として用いられることを願い、信じながら。
 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章3−4節)

 「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように」(詩編19編14節、日本聖公会祈祷書より)。