2012年4月29日      復活節第4主日(B年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「良い羊飼いの日」【ヨハネによる福音書 10:11〜16】

 本日は良い羊飼いの主日といわれています。良い羊飼いとなれるよう準備の期間を送っている神学校のためお祈りする日でもあります。
 さて、この箇所良い羊飼いと悪い羊飼い、誠実な羊飼い、不誠実な羊飼いの対象がみられます。パレスチナの地方では徹頭徹尾、羊飼いは羊に対しての責任がありました。万一羊に何かが起きると、過失責任が無いことを証明しなければいけなかったのです。

「主はこう言われる。羊飼いが獅子の口から二本の後足/あるいは片耳を取り戻すように/イスラエルの人々も取り戻される。今はサマリアにいて豪奢な寝台や/ダマスコ風の長いすに身を横たえていても。」アモス書3:12
「人が隣人から家畜を借りて、それが傷つくか、死んだならば、所有者が一緒にいなかったときには必ず償わねばならない。」出エジプト記22:13

 つまり羊飼いは羊が死んだこと、その死が不可抗力であったことの証拠品を持ち帰る必要があったのです。

ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」サムエル記17:34以下

 羊飼いにとって羊に命をかけるのは当然のことであったときにはそれ以上のこともありました。実際命を落とすこともあったようです。
 真の羊飼いは羊の為に危険を冒すことに躊躇しません。一方偽りの羊飼い、不誠実な羊飼いもいます。大変な違いがあります。本当の羊飼いは歩くようになると羊の中で一緒に寝起きしてくらすのです。それで羊は羊飼いを自分たちの仲間と感じるようになります。また羊飼いは羊の中で羊のことを先に考え行動するようになります。ところが偽の羊飼いは給料をとるためたまたまその仕事にありつき即席に仕事を覚えたものです。彼にはこの職業に対する誇りと責任がありません。狼は羊にとって脅威です。イエスさまは「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(マタイ10:16)といわれました。またパウロはエペソの長老たちに「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。」と警告しています。(使徒言行録20:29)
 狼が襲って来たとき悪い羊飼いは当然自分の保身のみで逃げ去るでしょう。
 預言者ゼカリアは11:6「わたしはこの地の住民を再び憐れみはしない、と主は言われる。見よ、わたしはどの人もその隣人の手とその王の手に任せる。彼らがこの地を打とうとしても、わたしは彼らの手から救いはしない。」と散らされた羊を集めようとしないのは悪い羊飼いの証拠といっています。報酬目当てで生きる人は金以外のことは考えません。「愛に生きる人は何より先に人のことを考える」と、イエスさまは言いたかったのです。
 イエスさまは羊を(つまりは私たち)を深く愛しその安全の為、自らは危険を冒しついに命を与えられたのです。