2012年5月13日      復活節第6主日(B年)

 

司祭 パウロ 北山和民

….これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。
わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。(ヨハネ福音書15章11−12)

 【イエスの「遺言」】
 説教する我々も、自分の父親が死に臨む病床から「最後に言いたいことがある」と呼ばれたと想像してみよう。
 いわゆる「遺言」というものは、「命とは何か」のをあらためて考えさせます。その主の死後それを聞き、その戒めを守るとき、「遺言の主」は生きて関与するわけで、そこでは「権威」についても考えさせられます。つまり、その命令・戒めが命の喜びを分かち合いへと引き出してくれるなら、こんなうれしいことはなく、その主に従おうと思うものです。
 復活の命、死に打ち勝つ「権威」とはこの喜びの繰り返しがあるかどうかにかかっているのかもしれない。

【イエスの本願と教会】
 今日の福音には「これらのことを話したのはわたしの喜びが、あなた方【教会】の内にあるように。」と記され、これがイエスの本願であるとヨハネ(共同体)福音書は記します。この共同体(わたし達の教会)はイエスの生前語られた言葉の具現体なのです。イエスの本願と教会が区別されていないこと、教会は常に宣教者であることに思いを潜めるのはとても大切です。

【互いに愛し合いなさい(17節)….】
 イエスのこの言葉の厳しさとありがたさは、我々にいわゆる「決まり文句」の説教を許さない。 ヨハネ共同体のように初めてイエスの言葉に包まれたかのように聞き、挑戦的に問う説教をしなければならない。愛する人、頼りにしていた人を失い不安な人々にイエスのように寄り添い、「教会に来ていないこと」を気にしているだろうか。今週水曜「昇天日」は正直に見つめれば、「主の語る希望を信じられない弟子達(教会)の頼りない気持ちを放置しなかった神の物語」と言えるのではないだろうか。