2012年6月10日      聖霊降臨後第2主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

聖霊による家族〜“聖家族”ではなく【マルコ3:20−35】

 イエスさまの家族は「聖家族」と呼ばれることがあります。その一方で、近年つくづく思うのは、聖書に出てくる家族に、絵に描いたような理想的な家族はほとんどないのではないか、ということです。いや、理想的な家族愛とは程遠いような、むしろへんな兄弟関係や親子関係が描かれることのほうが多いとすら感じられます。もちろん理想的で完璧な家族というものがこの現実世界にあるならばそれはそれで素直に賞賛したいと思います。しかし、どの家族だって多かれ少なかれ何らかの問題を抱えながら日々進んでいる、というのがむしろ家族のリアルな姿なのではないでしょうか。私自身ご多分にもれず、家族間の日常のすれ違い、仲たがいを挙げればきりがありません。若い頃にあこがれた家族像とは程遠く、ため息が出ることもまれではないのですが、聖書の様々な家族像をみると、自分の家族関係がそれほどへんでもないように思えてくるから不思議です。
 「聖家族」と呼ばれるイエスさまの家族だって、聖夜の晩はともかく、今日の場面では、身内がイエスさまを取り押さえに来るほどでしたから、穏やかではありませんでした。その渦中のひとイエスさまはここで、常識的な道理を取り上げて、自らへの批判をかわしています(24、25節)。さりとてそこに留まっておしまいではなく、すぐさまその家族の道理を揺さぶります。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(35節)。
 こうしたことから分かるのは、何より大切なのは聖霊つまり神さまとのつながりだということです。別の言い方をすれば、その家族関係が、“聖なるもの”か、理想的なものであるか、完璧であるか、常識的であるか、道理にかなっているか、そんなことはどうでもよい。この世が提供するさまざまなつながり、わたしたちが思い描く理想とは全く異なる、神さまの御心を行う、という基盤を宣言してくださったのがイエスさまでした。その御心とは、さまざまに言うことができるでしょう。が、一つだけ挙げてみようと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ3:16)。
 この御心を基盤に、人と人とがつながることを神さまは望んでおられ、聖霊が働いている―。そう思えたら、もう少し家族へ柔らかいまなざしを回復できそうです。それとともに、わたしたちが、人の思いをこえる基盤のもと、聖霊の働きによってさまざまなひとたちとつながるよう招かれていることを知ることができます。そのつながりが“神の家族”です。それは聖霊の働きによる家族ではあっても、わたしたちが理想化するような“聖家族”ではありえないでしょう。