2012年7月1日      聖霊降臨後第5主日(B年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

「恐れることはない。ただ信じなさい」
【マルコによる福音書5:22〜24,35b〜43】

 イエスがガリラヤ湖沿岸で、宣教活動をしていた頃のことです。この町の人びとは、多くの病人や悪霊につかれた人を癒す「神の子、イエス」のうわさを他の町や村の人びとから聞いて知っていたのでしょう。会堂長ヤイロがやって来てイエスの足元にひれ伏し、私の幼い娘が死にそうなので来て手を置いてやってほしい、と必死になって頼みます。彼の言葉と姿には、娘に対する真実の愛と救い主・イエスへの強い信頼があふれています。しかし、彼らを取り巻く群衆たちはどうだったのでしょうか。イエスが果たしてほんとうに病人を治せるのかという疑いを持ちながら興味本位で集まってきた人が多かったかもしれません。イエスがヤイロの家に向かう途中で、人びとが来て「お嬢さんは亡くなりました」と告げます。もうイエスが来てもどうしようもない、娘の状態は絶望的でイエスが来る意味はないのだ、ということです。しかし、イエスはその告知にたじろがず、「恐れることはない、ただ信じなさい」とヤイロに言って娘のところに向かいます。イエスは信頼しない人びとを外に出してから娘の手を取り「タリタ・クム」と告げると、少女は起き上がったのです。
 私は、長年病院のチャプレンをしていた牧師からこう聞いたことがあります。「患者さんと顔を合わせるとき、この人はもう絶望的だと思いながら会わないように。周辺の人がそう見た途端に病状が悪化していったのを私は何度も経験しました。」この言葉を皆さんはどう思われますか。その人がどのような病状にあっても、神様に守られた、神様に愛される存在であるという周辺の人の確信が、病者や高齢者のスピリチュアル・ケアには必要不可欠です。肉体的な死はいつか訪れますが、キリスト者にとってはそれがすべての終わりではなく、主イエスがいつも共にいてくださるのですから「恐れることはない」のです。
 もう一つこの物語から聴くメッセージは、イエス様が周りから絶望視されていた少女を起き上がらせてくださったことです。日本では百数十年前までは、女に学問は必要ないと言われて教育を受けられず、貧しい家庭の女の子は性産業者に売買されることもありました。現在はかなり男女平等の社会に変化してきたとは言え、それでもさまざまな暴力にさらされやすいのは少女と女性たちであることに変わりはありません。が、それは世の常だから仕方がないとあきらめてはいけません。さまざまな領域の人びとが暴力のない平和を祈り求め続けて活動しています。例えば、毎年開催される国連女性の地位委員会の世界会議には、女性に対する暴力の問題に取り組むNGOの女性たちが少女を伴って世界各地から集まってきています。そしてノーベル平和賞を受賞した女性たちの活動もあります。繰り返される暴力と差別と貧困の問題を絶望視するのではなく、真の平和の実現を祈り求め続ける女性たちの「恐れず、信じる」力がそこにはあります。イエス様はこの物語を通して、弱い立場の少女が起き上がって自ら歩めるようにサポートするという使命をも、私たちキリスト者に与えておられるのではないでしょうか。