2012年11月11日      聖霊降臨後第24主日(B年)

 

司祭 パウロ 北山和民

イエスは賽銭箱の向かいに座って、…。ひとりの貧しいやもめが来て、レプトン2枚(1日給の64分の一)を入れた。
イエスは弟子達を呼び寄せて言われた「アーメン。この貧しいやもめは賽銭箱に入れている人たちの中で、だれよりも沢山入れた。…」(マルコ福音書12章41−44)

【感動したイエスさま】
 マルコ福音書はこの前(前主日)の箇所では、律法学者に感動し、ここではやもめの行為に感動して、この出会いと説教を最後に、十字架へと突き進むのだと、イエスの受難への道を描きます。
 弟子達を呼び集めたのだから、よほど感動したのでしょう。おそらく、イエス自身が、このやもめの振る舞いを自分と重ね、十字架へ向かう覚悟を固めたのでしょう。

【全財産の献金を勧めているのか?】
 今日の福音は「金額は問わない。全財産をささげる信仰こそ、主に喜ばれる。」「さあ、いつも5百円献金しているあなたは、今日から千円献金しましょう」といったように聞こえます。しかしもっと大切なことは、我々がイエスが出会ったような出会い、悔い改めにつながる感動に巻き込まれているかどうかということです。つまり、この(あまり自由でない)自分も日常のなかで、イエス様のように「新しい命に向かって根こそぎ変れるぞ!」という生き生きした信仰を生きる事ができる、このワクワクを頂戴しているかどうか、ということです。「命ギリギリ」というと聞こえは悪いが、お金、所有物から解放された生き方、またはそうせざるを得ないほど小さくされた人たちと「一期一会」の集中力で出会うとき、わたし達はむなしさを打ち破り、永遠に触れることができる!

【自分が消えるような「他者」との出会い】
 この貧しいやもめこそ、イエスにとって「自己を完成(消滅)させる他者性」だったとわたしは考えています。「お前は何者だ!。わたしのところまでお前は来れないだろう!」「この訴えに見て見ぬ振りは赦さん!」と迫ってくる「隣人」こそ、「死なないでいる理由を見失った現代人」に最も必要な「他者性」ではないだろうか。
 日常でもっと子どもや、いわゆる「苦手な人」との「対話」に心開きましょう。そうすれば、聖餐式の中のイエスさまがあなたの「他者性」となって生きてくださることがわかるでしょう。