2012年12月30日      降誕後第1主日(C年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)
 ヨハネによる福音書は、「初めに」という旧約聖書の天地創造の言葉から福音を語り始めます。「光りあれ」という神の言(ことば=ロゴス)によって天地創造は始まり、すべてのものは神の言によって造られた。ロゴスは、神に属するものであって、神と共にあって、神と本質的に等しい。それが、キリスト・イエスなのだ・・・。ヨハネは、キリストが人となってこの世に来られたことによって、「第二の創造」が始まったことを知らせようとしています。
 「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:4−5)
 神の言は、神の御心であり、神の力であり、新しい存在を生みだす命です。人は、「神の像に似せて」造られ、「命の息」を吹き入れられて、生きる者となりました。神の命の息があってこそ、人は神の愛を知り、信じて生きることができるのです。言に命があって、光り輝き、人を照らし導きます。最初の天地創造では、「光」が存在する前は、地は混沌でした。そして言によって「光」がもたらされ、創造の秩序が打立てられていきました。第二の創造をもたらす「光」である主イエス・キリストは、激しい迫害の嵐吹く混沌の中から、救いの秩序を造りだしました。すなわち、言は肉となって人として地上に現れ、私たち人間をその罪から救い出すために、十字架にかけられたのです。
 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、またすべての兄弟が彼によって信じるためである。」(ヨハネ1:6−7)ここに記されたヨハネという名前には、「洗礼者」という肩書きは記されていません。これはヨハネの教会の人々を象徴しているのかもしれません。彼らは、イエスを神の子・救い主と証しし、人々を信仰に導き、そして1世紀末の激しい迫害に直面しました。それでもなお、神の言であるキリストを受け入れた人々には神の子となる資格が与えられた、とヨハネ福音書は宣言します。その人々は、神によって再び生まれた、第二の創造によって生まれた「神の子」なのです。
 「言は肉となって私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)
 イエスは十字架の死と復活において、神の救いのわざを全うし、神の栄光を現します。ヨハネは、神とイエスの関係を、独特な「父と子」という言葉で語り伝えました。神の子イエスが語り伝える父なる神の「恵み」は、何かの条件や地位によってではなく、救いを求める者すべてに与えられる豊かな「愛」です。そして、救いの道を示す永遠の「真理」を明らかにしてくださいました。私たちは、その豊かな恵みと真理を知らされています。子なる神は、父なる神の御心を私たちに示してくださったのです。
 ヨハネ福音書の記者は、こうして、神の言である御子イエス・キリストが、神の愛と真理を私たち人間に示してくださったことを語り伝えました。その御言葉を信じる私たちは、神にしっかりとつながれた「神の子」として生かされているのです。
 神は、聖霊によって常に私たちを新たにしてくださいます。神の子とされた私たちはその喜びをと感謝をもって、主の栄光をこの世に証ししていきましょう。