2013年2月3日      顕現後第4主日(C年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

「預言者は自分の故郷では歓迎されない」【ルカ4:21〜32】

 この福音書は、イエスさまがガリラヤでの宣教を始められて間もない頃に、故郷のナザレで起こった出来事を伝えています。評判が広がり尊敬も受けたイエスさまでしたが、ナザレの会堂ではそうではありませんでした。今でも同じメッセージを聞きながら、受け入れる人と反発する人がいるのと似ているように思います。
 何故、人々は反発したのでしょうか? 自分たちと救いの理解が違ったからでしょうか。イエスさまの口から出た言葉に権威があったからでしょうか。「人の子イエスについては昔からよく知っている」ことが返って妨げになっていたようです。24節「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」とありますが、この意味は故郷のナザレであると同時に神の民イスラエルをも指しているように思います。自分たちにとって聞き捨てならないことを言った奴だと人々は憤慨し、追い出されてしまう、それが預言者の姿だというのです。十字架への道のりを思い起こします。しかし、ナザレをはじめイスラエルの民には聞き捨てならないこの「異邦人への救い」の恵みのゆえに今の私たちがあるということに気付かされます。
 イエスさまは相手の顔色を伺いながら、語ることを変えたり、自分の行動を変えたりされることはありませんでした。私たちは、ついつい周りの目や人からどう思われるだろうかと評価が気になって本当に自分の言いたいことが言えなかったりすることがあります。「わたしはなりたいキリストをいきる人に」という歌がありますが、キリストのようにありたいとは、勇気を出して言いたいことを言おうとすることでも、偉そうなことを言うのでもなく、誰に対しても僕という姿を自分なりに保ち続けていくということではないでしょうか。21節「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とありますが、「明日ではなく今日である以上、今ある課題に向けて自分なりに新たに踏み出していこう」と決断する姿勢を誰かに言うのではなく自らに言い聞かせたいものです。