2013年8月11日      聖霊降臨後第12主日(C年)

 

司祭 マーク シュタール

 《354》又は《365.242199》。見方によってはただの数字ですが、とても重要な数字です。どの大昔の社会も、月が12回満ち欠けしたら、一巡したことを発見しました。これを日数に直すと354です。でも、数年するとずれが生じます。古代の人は知らなかったのですが、理由は月のサイクルは太陽を回る地球のサイクルと全く同じではなかったからです。今、私たちは地球が太陽を回るのには、365.242199日かかることを知っています。だから354日だと、約11日のずれが生じ、何世代かすると昔は夏にあった日が春の初めに来てしまいました。その結果、人は何年もかけてカレンダーを修正する必要が出て来て、例えばすでにあるカレンダーに7月と8月を足したりしました。この二月は有名な皇帝から名前をとっています。ユリウスとアウグストゥス・シーザーです。(ユリウス・シーザーは7月、Julius=July;アウグストゥス・シーザーは8月、Augustus=August)
 カレンダーを変えるということはいつも大変なことでした。中世の時代、カレンダー、暦というものは神様に属するものだと強く考えられていました。カレンダーというものは信仰と祈りの時間割のように考えられ;それは普遍のもので、だれでも変えようとなど考えもしませんでした。このことは中世とルネッサンス時代において、時間やカレンダーという概念を分かりにくくしました。一般の人々の生活のペースは変わらないのに、時間を計ったり、時間に正確さを求めたりすることが一層可能になったのです。時間をただすことはもはや無視出来ないことで、時間を神様だけに属するものにはできなくなってきたのです。
 カレンダーや時間の規定の歴史は、キリスト教と深い関係がありますが、とても面白いです。そして、今週のみ言葉にふれ改めてそのことを私に思い起こさせました。
 最初に、このみ言葉のテーマは深い信仰についてだと思いました。けれども、それは当たり前すぎる。裏に、“神様の時間”というテーマがあります。
 創世記の1&6節“あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。”詩編33:20“皆の魂は主に待つ”;ヘブライ人への手紙11:3“信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。ルカによる福音書12:40“あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからであろう。”全ては行間を読むということで、時間の持つ意味を示してくれているからです。それらを要約すれば、ローマの信徒への手紙12:2“あなたがたはこの世にならってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えて頂き。”クリスチャンとして、私たちは“右に倣え”になるべきではありません。それは時間に始まります。私たちは信念のあるものでなければならず。盲目的に従うものであってはなりません。私たちは道徳的に高貴でなければなりません。社会的地位は求めるものであってはなりません。私たちは人と違う生き方より高い所にあるものに従って生きるものでありたいと思います。本当のクリスチャンは二つの時間、時、を生きています。この世の時間と永遠の御国につながる時間です。
 盲目的に従うこと盲従を戒めているのはパウロだけではなく、主イエス・キリストもそうです。キリストは最も盲従しなかった人でした。その盲従しない高い倫理観は今も人の良心を試し続けています。時間は中立です。人が時間をどう使うかでよきものにも、悪しきものにもなります。Martin Luther King牧師は言いました: “The time is always right to do right”(正しいことをする時はいつも正しい時間です。)
 私たちは常に、自分に問いかけたいものです。私たちは時間が投げられるままに進むのか?あるいは非難を恐れず、永遠の命を奏でる調べに従って進むのか?時間について考えてみましたが、ローマの信徒の手紙のみ言葉によって、私たちは今も試され続けています: 一年は354日でも、365.242199日でも、同じ神様が作られたものだということを知ってほしいです。
 主に感謝