2013年10月27日      聖霊降臨後第23主日(C年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「高慢という罪」【ルカ18:9〜14】

 パレスチナの敬虔な人は、定められた時間に日に3度の祈りを守っていました。特に神殿で捧げられる祈りは効果があると考えられ多くの人びとが神殿に出かけて行ったのです。今日の福音書では、イエスさまが祈りに出かけてきた2人のことを引き合いにお話しされます。
 第一にファリサイ派の人です。この人は本当に祈っているのでしょうか。
 彼は自分自身を誇示したにすぎません。神さまの前に自己推薦しただけではないでしょうか。律法では断食の規定は限られた日だけだったにもかかわれず、彼は特に功徳を得たかったのか週に2日も断食しました。さらにはそれをもって人々の賞賛も得ようとしたのでしょうか。
 更には、このファリサイ派の人は10分の1の捧げものの義務が無いはずなのに献納していました。これらの態度は、最悪のファリサイ派の典型と言えるでしょう。このファリサイ派は祈りに行ったのではなく、自分がいかに善人であるかを神さまと人に広告に行ったにすぎないのです。
 もう一人の登場人物は徴税人です。彼は「遠くに立って目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしをあわれんでください』」と祈ったのです。
 ここで私たちは「祈り」について学ぶことができます。それは、「高慢」なものには祈りができないということです。天国の門は針の穴のように狭く、その門は大変低いから、自分を小さくしてひれ伏さなければ入れないものなのです。
 もう一つは、他人を軽蔑するものは祈ることができないということです。自分が犯した罪に苦しむことの自覚が強ければ他人を軽蔑する心は湧いてこないものです。ただ、神さまの憐みを乞うしかないのです。
 最後に真の祈りは神さまと共に生きる生活から生まれるということです。このファリサイ派の人が言ったことにうそはありません。しかし問題は、他人に比べて自分がどうであるかということではないのです。問題は、神さまとの関係において自分がどうかなのです。
 私たちの人生とイエスさまの生き方との比較の中から、「ああ、何と自分は惨めな罪人であろうか。神さま憐れんでください」と言うほかないではと思うのです。主に感謝。