2014年3月16日      大斎節第2主日(A年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

【ローマの信徒への手紙4:1〜5,13〜17】

「その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」(ローマ4:13)

 1517年、マルティン・ルターが「95ヶ条の論題」をヴィッテンベルグの教会の扉に貼付けて、ローマ教会の贖宥状(免罪符)販売を批判し論議を呼びかけたことが宗教改革の始まりだ、と高校の教科書に書かれているのでご存知の方も多いでしょう。ルターは、以前からどうしたら人間の罪が神に赦されるのかという問題に悩んでいました。それは彼が神に献身した直接的なきっかけが、雷によって死にそうになった時に「聖アンナ様助けてください、修道士になりますから」と叫んだからで、神のためというより自分の命乞いのためだったので、神を恐れて罪意識を抱えていたからだ、と言われています。修道士として祈りと聖書研究に励みあらゆる善行を積んでも、自分が神の前に正しいとは思えないことに苦しみました。そうして、神学教授として研究と教育に従事していたルターが、大きな喜びを感じた聖書の箇所が、このローマの信徒への手紙の箇所なのです。そこから、ルターは、人間の善行によって神が義と認めてくださるのではなく、ただ神の恵みにより信仰によってのみ義とされるのだ、という「信仰義認」が聖書の伝える真理だと悟ることになります。それは決して新しい考え方ではなく、1450年以上も伝承されてきた手紙に書かれていたことです。それなのに16世紀初頭においては、善行を積んだ者が神から正しい者と認められる、という考え方が当たり前になっていました。それは私たち人間が時代を越えて、目に見える行いによって神の救いを得られるのだ、と信じたいという傾向をもっているからではないでしょうか。この手紙を書いたパウロは、もともとは律法を遵守することに熱心なファリサイ人でした。神の掟としての律法を守る生活を行っているし、自分は神の前に正しい生き方をしているのだ、というのがファリサイ人の誇りでした。だから律法を遵守しないキリスト教徒を迫害していました。しかし、ある日復活のキリストと出会ったことで、180度変えられて福音宣教者となり、神の救いの約束は律法に基づいてではなく、信仰による義に基づく、と表明するようになったのです。パウロはそのことを説明するため、ユダヤ人の信仰的父祖であり神から最初に救いの約束をいただいたアブラハムのことを取り上げています。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」の言葉は、創世記15章6節にあります。後継者となる子供がいないアブラムに、神は「天を仰いで星を数えてみなさい、あなたの子孫はこのようになる」と言われ、それを彼は信じたのです。古くから伝えられていた物語です。しかしそれでも、目に見えるもの、具体的な行いによる効果に依存してしまう人間の歴史は繰り返されており、パウロもルターも聖書の言葉でその真理を伝えなおさなくてはなりませんでした。主なる神と私たちのつながりは、この世的な目に見えるものに基づいた価値観で計ることはできません。いつも、どんな時にも、復活の主イエス・キリストを心に覚えて、目には見えない神の恵みと愛を信じて、信仰の道を歩んでいきましょう。