2014年7月27日      聖霊降臨後第7主日(A年)

 

司祭 パウロ 北山和民

イエスは(群衆に向けて)言われた、「天の国はからし種(が成長するとき起こること)に似ている。…天の国はパン種(が粉に入ったとき起こること)に似ている。
(弟子たちに向けて)言われた。「…畑に宝が隠されている。見つけた人(教会)はそのまま隠しておき、…その畑を買う。
(マタイ13章20−)
 言霊(ことだま)が人を救う
 【たとえ話による「神の振る舞い」と「人間の応答」】
 「からし種」、「パン種」のたとえは群衆に向けて、神の介入のイメージを与える。むくむくと成長する木々のイメージは、『となりのトトロ』の一場面を思い出す。私たちはファンタジーとして聞く。しかし,農夫やパンを焼く女たちは「38リットルなんて焼く釜ないぞハハハ」と笑いながらもこのべらぼうな膨張に納得しただろう。このたとえは「圧倒的成長力の潜在する現実」に、聴衆のわたしたち、打ちひしがれ、無関心に陥った者たちを招く。マタイ福音書は、旧約預言者を背景として「人の子よイスラエルの家に向かってたとえ(マーシャール・謎)を語れ」(エゼキエル17章)」はイエスの職務であり、教会に継承されていると描く。
 後半の「地に埋もれた宝」「真珠」のたとえは、その神の招きに対応する我々(教会)の行動を描き、51.52節の「新しさ」について理解させる。
 【天の支配とは何か?たとえ話のねらいは?】
 「宝を見つけて、なぜそれを持ち逃げしなかったのか?」と聞くものに食い込む。偶然であれ、勤勉努力の結果であれ、「救い」を見つけたこと、それが天国ではないようだ。見つけたあなた(わたし)は「持ち物をすっかり売り払う(自己が消滅する)」をどう聞き、立ち止まるかが重要なのである。これは単純に新興宗教が求めるような物質的欲からの解放のため教会に寄付しなさいと聞くのではく、現実課題を「神の支配」を物差しにして取り組めという招きと聞く方が重要なのです。つまり「天の支配」とは幸せになったり、何かを獲得できる領域なのではなく、現実に(主体を発見し、新しい勇気をもって)「参与する領域」なのである。頭ではなく心と体が新しくなるかどうかが大事なのである。        以上