2014年10月19日      聖霊降臨後第19主日(A年)

 

執事 ダニエル 鈴木恵一

 今日の福音書(マタイ22:15−22)は、エルサレムに入城したイエスさまが、民の指導者たちなどと神殿で論争し、対立が深まっていった中での出来事です。
 そして、律法を厳密に守ろうとするファリサイ派の人々と、ローマ帝国の支配を受け入れるヘロデ派の人々とが、一緒になってイエスさまの所にきて、罠にかけようと、論争をけしかけました。
 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」この問いは、適っていると答えても、適っていないと答えても、イエスさまを陥れるものになっていました。適っていると答えれば、ファリサイ派の人々は、「イエスは、神の民イスラエルを異教徒ローマに服従するように言った」とイエスさまを支持していた人々を失望させる口実になりますし、適っていないと答えれば、ヘロデ派の人々は「イエスはローマ皇帝に反逆した」と訴える口実になるからでした。 でもイエスさまは、ローマへの税に使う皇帝の肖像と銘のあるデナリオン銀貨を示して「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられました。そして、論争をけしかけた人々は、驚きイエスをおいて立ち去ります。
ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が驚いた、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」はどのような、意味を持つのでしょうか。
 ここで言われている「皇帝のもの」とは、「皇帝の肖像」が刻まれている硬貨を示しています。同じように「神のもの」は「神の肖像」が刻まれているものと言う事になります。肖像はかたちをあらわすものです。創世記に「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあるように私たち人間は、神さまご自分のかたちに刻まれたもので、神さまによって創造された神さまのものです。
 これまでの論争のなかでも、イエスさまは、神さまから託されものを自分のもののようにしてしまった人々を批判するたとえを語られてきました。
 「神のものは神に返しなさい」とは「神のもの」であるわたしたちが、自分のものとしてしまった神さまの似姿を、神さまに立ち返って生きること、神さまのみ心この地上に示す生き方をするようにと、言われているのではないでしょうか。