2014年11月16日      聖霊降臨後第23主日(A年)

 

司祭 マタイ 出口 創

トイレと世の終わり

「神はわたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずかるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」  テサロニケの信徒へ手紙一 5:9,10

 寒くなったせいか、夜中トイレに起きます。布団から立ち上がりトイレに行って、用を足して布団に戻って、また眠りにつくのですが、大体すぐに眠れます。ということは、一連の動作に必要な体の部分だけが目覚めて、あとの大半は眠ったままなのだと思います。眠っている部分にしてみれば、目覚めた一部に連れられて、知らない間に、一緒にトイレに行っている事になるのでしょうか。

「体のすべての部分の数は多くても、体は一つである…つまり、…皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった…あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(コリントの信徒への手紙一 12:12,13,27)。

 キリストは十字架で死んで、復活し、天に昇ったと、私たちは信じています。でも、洗礼によってキリストの体の部分とされた私たち全部が、覚醒しているわけではないのでしょう。キリストの体全部が例外なく覚醒するときを、「キリストの再臨」「終末」「世の終わり」「神の国の完成」と呼んでいるのだと思います。そのときをわたしたちは待ち望んでいるのです。