2015年3月29日      復活前主日(B年)

 

司祭 サムエル 奥 晋一郎

わたしたちのために十字架に架かられたイエスさま【フィリピ2:6−11】

 今回は、29日復活前主日に使徒書に選ばれているフィリピの信徒への手紙第2章6節−11節の箇所を見てみましょう。このフィリピの信徒への手紙はパウロが現在のギリシアに位置するフィリピという町に住んでいる信徒にあてた手紙です。この箇所は初代教会の「キリスト賛歌」といわれ、パウロがこの箇所を引用し、書かれたものだといわれています。この箇所は前半部分の6−9節ではキリストであるイエスさまと神様の行動が、後半部分の10−11節ではそれが人間にもたらした結果が書かれています。
 前半部分ではキリスト、すなわち救い主であるイエスさまの行動です。イエスさまが神様と等しい身分でありながら、それに固執しないで、神様に従うために、自分を無にして、僕となるほどにまでにへりくだられました。自らを低くされました。そして、イエスさまは死に至るまで、十字架の死に至るまで神様に従順でした。このことによって、イエスさまはキリスト、救い主であるにもかかわらず、徹底的に人間として生きてきたことを示されたのでした。そのことによって、神様はイエスさまを高く上げあらゆる名にまさる名、「イエス・キリストは主である」という名をお与えになりました。さらに、後半部分9−11節では、前半部分のイエスさまと神様の連帯によって、すべてのもの、すべての人間がイエスさまの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神様をたたることができるようになったのでした。
 この箇所から、キリストであるイエスさまが十字架に架かるほどにまで、自らを低くし、神様に従順であったように、わたしたちも自らを低くして神様に従っていくことが大切です。そう言ってしまえば、確かにそれはその通りなのですが、では私たちはいつでも、どんな時でも自らを低くし、神様に従うことができているでしょうか。残念ながらそれができるのはイエスさまだけなのではないでしょうか。なぜ、イエスさまは十字架に架かられたのでしょうか。それはイエスさまが十字架に架かられたのは私たちを含め、この世のすべての人の罪を背負うためでした。
 罪とは一般的には法に背いた行い、刑罰、悪いこと、過ちを意味します。しかし、聖書が伝える罪はそれだけにとどまりません。聖書が伝える罪は、神様に背くことで自分自身を神様の位置に置こうとする傲慢です。神様中心ではなく自己中心のことです。いつでも、どんな時でも自己中心でない人、完全な人は誰でしょうか。それができる方は自らを低くし、神様に従い、すべての人を自己中心から神様中心にするために十字架に架かり、神様から人への罪の赦しを示されたイエスさまだけです。
 だからこそ、わたしたちは自分自身の心を自己中心ではなく、神様中心にするために教会に集い、礼拝をおささげし、「イエス・キリストは主である」と宣言しています。そして、教会で礼拝することによって、わたしたちはイエスさまが私たちを含め、すべての人の罪、自己中心的なってしまうという弱点、弱いところに、いつでもどんな時でも寄り添って下さっていることを、十字架を通して覚えたいと思います。
 そして、私たちは少しでも自らを低くし、神様に、イエスさまに従っていくことができるようにしていくために、特にこの世で弱い立場に置かれている人と共に支えあって、寄り添って生きていくことが大切です。そのためにわたしたちは礼拝の時に献金を行っていること、教会が社会問題に関っていることを決して忘れてはいけません。
 これらのことを心に留めて、私たちはイエスさまが十字架に架かられたことを覚える、ホーリーウィーク、聖週を過ごし、来週の日曜日4月5日、イエスさまが復活されたことを祝うイースターを迎えたいと思います。