2015年4月26日      復活節第4主日(B年)

 

執事 ダニエル 鈴木恵一

 復活節の第4主日を迎えました
 先週までは福音書はイエスさまのご復活の出来事が朗読されました。今週からはご復活されたイエスさまが今もわたしたち共におられることを伝える聖書の箇所が朗読されます。
 今日朗読されるのは、イエスさまがされた良い羊飼いの話です。
 良い羊飼いというと、上手に羊を育てる羊飼い。という印象を持つのですが、イエス様の言われる良い羊飼いというのは、わたしたちが考える羊飼いと少し違うところがあります。
 上手に育てるというと、品質の良い羊に育て上げることのできる羊飼い。高く売れる羊を育てる事ができる羊飼い などと考えてしまいますが、イエスさまの言われる良い羊飼いは、羊のために自分の命をささげることを厭わない、羊を命がけで守る羊飼いとだというのです。
 この「良い」という言葉は、ギリシャ語でカロスという言葉、外見的に良いことや、目的にかなって良いということを表す言葉が使われています。ここでは、羊のために命をささげるのが目的にかなう役に立つ羊飼いだと、イエスさまは言われるのです。
 イエスさまの時代のパレスチナの羊飼いは、野宿をしながらの生活でした。100頭ほどの羊の群れを追いながら、草を求めて旅をしました。羊の群れを、狼や盗人から守るのが羊飼いの役割です。羊の囲いに戻るまで、時には他の羊飼いの群れと混ざってしまうことがありますが、羊たちは自分の羊飼いを見分けて、群れに戻ってくるそうです。このように羊が羊飼いを信頼するのには理由があります。パレスチナは乾燥した気候で、年間の多くは牧草地も茶色く乾燥しています。そこに残されたわずかな牧草に導くのが羊飼いです。羊にとっても、自分の羊飼いを見分けて従っていくことが、自分の命を保つことにつながります。
 良い羊飼いであるイエスさまは 自分の羊であるわたしたち一人ひとりを知ってくださっています。そして羊であるわたしたちも良い羊飼いであるイエスさまを知っています。この知っているというのは、単に知識として知ると言う意味ではありません。関係を表す言葉です。日本語でも、「知っている人に会う」「知った顔ばかり」と言うように、知るということばは、「付き合いがある」「交際がある」などの意味を持っています。
 イエスさまも、知っているということを通して、神さまとイエスさま、イエスさまと私たちの深い結びつきを示されました。
 今日のイエスさまの言葉は「生まれながらの盲人のいやし」に続いて語られていることにも注目したいと思います。癒され、目が見えるようになった人は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と言いました。イエスさまを知るということは、イエスさまがどういう人かという知識の問題ではなく、イエスさまによって自分自身が変えられた、という出会いの体験そのものでした。
 イエスさまは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。」と言われています。良い羊飼いであるイエスさまは、囲いの中の羊だけではなく、囲いの外の羊たちをも守り導くと言われるのです。そして、イエスさまは「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と、十字架とご復活の出来事を通して全ての人を救われました。
 イエスさまのご復活をおぼえるこの復活節。わたしたちも良い羊飼いであるイエスさまの声を聞き分け、イエスさまのご復活のいのちに招かれていることを感謝し、喜びの食卓に与りましょう。