2015年7月12日      聖霊降臨後第7主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

「十二人を派遣する」【マルコによる福音書6章7−13節】

 10節に「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つ時まで、その家にとどまりなさい」とありますが、ここに関してある本にこんなことが書かれていました。今とは違って当時は、泊りがけの旅行ということになると宿泊所もそうある訳ではないですから、至る所で人の好意にあずからなければならなかった。そうすると問題もしばしば起こったようです。たとえば、ある人たちはこういうわがままなことをした。ある村に行って、Aさんの家に泊めてもらう。一日か二日たつと周りの村の様子が分かってくる。するとこういうことを考える。Aさんの所に泊まってしまってちょっと損をした。Bさんの家はもっとおいしい食事だったと聞いて、もっと良い待遇を求めてうろうろする。そういう人が実際によくあって問題になったようです。今風だったらこういうことでしょうか。料理がまずかったらそこの宿泊は取り消して美味しいと思われるところにしたら良い。お金を払っての契約だったらそれは別に問題にはならないでしょうが、人の好意を受けてということだったら確かに状況は違うと思います。だから、イエス様はここで家を渡り歩くことを禁じているという訳です。さらに、非常に厳しいとも受け取れることをお命じになっています。杖1本しか持ってはいけない、パンも、袋も、お金も持つな。とにかく、当時その地方で旅をする時にはなくてはならない必需品と思われるもののほとんどを持っていくなと言われます。イエス様はどんな思いでこのようなことを言われたのでしょうか。
 ここで、ルカによる福音書10章38節以下のマルタとマリアの話をいたしましょう。イエス様は旅の途中で、マルタ・マリアの姉妹の家を訪ねました。二人はとても喜んで主イエスをお迎えするのですが、妹のマリアは主のお側にずっといて主の話に聞き入っていました。一方マルタは、台所に入って食事の準備をしたりということでしょう、いろいろともてなしのためにせわしく動き回っていました。そして、主イエスにマルタはこう言うんです。「マリアはわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。相当腹が立ったのでしょう。そして、私たちもこのマルタの気持ちに同調してしまうところがあるのではないかと思います。マルタはイエス様のことを思い、精一杯もてなそうと一生懸命になっている。マルタだけにさせておくのではなくて、マリアも手伝って当然だ。きっとこのように多くの人たちはマルタに同調するのではないでしょうか。でもそのマルタに、イエス様はこう言われました。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけ。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。もてなそうと忙しく動き回るマルタを決して否定している訳ではないのですが、イエス様の側にいて、その語られる言葉に聞き入るマリアの姿をなくてはならない必要なこととして、それを取り上げてはならないと言われました。
 マタイによる福音書の6章に山上の説教の中で、主は言っておられますよね。「思い悩むな。思い煩うな」。確かに私たち人間は、思い悩み、思い煩い始めたらきりがありません。そのことばっかりに捕らわれてしまう。そういう傾向を私たち人間は確かに持っています。そうなるとどうなるのでしょうか。自分のことで精一杯になって、人のことなんかどうでも良くなる。増してや神様のことを忘れてしまう。み言葉を聞こうともしなくなる。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と日常のこと、明日のことで思い悩み、思い煩ってはいけない。本当に必要なものを神様はちゃんと与えてくださる。その神様に信頼し任せていくことなんです。つまり、神様に本当に信頼して委ねて生きる宣教者の姿勢を言っているのだと思います。
 イエス様は、宣教へ旅立つお弟子さんたちに、なぜこのようなことを命じられたのでしょうか。貧に徹すること、それ自体が目的ではないと思います。それは、12人のお弟子さんたちの集団またその活動が、どこにでもあるような単なる人間的なものに陥ってしまわないためです。そのために語られたんです。人々の中で、人間社会の中で、どのような状況にあっても、その福音を宣べ伝える器であり続けるため、その本質が失われないために他なりません。そして、このイエス様の思いは、12人のお弟子さんたちだけに対するものではないと思います。そのお弟子さんたちを通して造られ、そして世界へ広がっていったキリスト教会の交わりに対しても、同じであると思います。