2015年7月26日      聖霊降臨後第9主日(B年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「迫害の中で聞く奇跡物語」【マルコによる福音書6章45節〜52節】

 今日の福音書は湖上を歩くイエスさまの話です。先主日は5000人の給食の奇跡でした。イエスさまは子どもが持ってきたパン5つと魚2匹を男だけで5000人と言う数ですから、女性や子どもを入れればその倍以上はあったであろう量を満たすほどに増やしました。
 こういう話を聞くと「昔の人はそういう奇跡の話も単純に信じられた。でも今は、そんなに単純に信じられない。科学があり、いろいろな知識があるから」そのように言われる方がいます。そこで現代人に分かる話に作り直していこうとしまいがちです。
 たとえば「本当は、自分の食事を持ってきた人が多くいたのですが、分け合って食べれば、自分の食べる分がわずかになると思うと、それを言い出せなかったのです。でも子どもがわずかなお弁当をイエスさまに差し出し、それを皆で分ければいいと言いだしたので、自分たちの狭い心が恥ずかしくなり、持っていた食べ物を出しあったところ、結果有り余るほどになった」のではないかなどです。「自分だけのものにしようとするのでなく、寛大な心を持ちましょう」と、これでは道徳の話に置き換えられてしまっています。
 福音のメッセージを正しく伝えることになっていません。もしもただこれだけのことならイエスさまを王にしようとする群集の行動はなかったでしょう。
 何より、教会に対する迫害と殉教がひどくなるその時代の中で、編纂され、成立していったのが、福音書なのです。ネロの迫害でパウロとペトロが殉教したのがAD61−65年、その後くらいから、マルコの福音などができ始め、最も過酷と言われるドミティアヌス帝(AD81−96在位)の迫害、さらにユダヤの国自体ローマによって滅ぼされていくのが、90年代初期です。
 つまりこの福音を読み、伝えているのは、ローマ帝国に追われ、飢え、地下の墓場に隠れ、生活している信者たちなのです。パンを食べたくて、いくら祈っても、パンが増え、たらふく食べることなどできず、かえって死に追いやられていった時代だったのです。そういう迫害時代の人たちが信じ、読みつないでいったのが福音書なのです。彼らは、けっして単純に書かれたことを信じられる状況にある人たちではありませんでした。
 科学が今ほど進歩していなくても、簡単に人が湖の上を歩くことなど信じることはありませんでした。しかし飢えと無力と惨めさの中で、このことを書き、言い伝え、信じることに賭けた人たちだったのです。
その人たちを、昔の人は単純に信じられたけど、今は科学的に考えるからなどと言って、信じることを拒否するのなら、それほど当時、命がけで信じ、命を捧げていった人たちをばかにする話はないのです。それこそ現代人の傲慢ではないでしょうか。
 そのことを前提に、改めて今回の福音を読むと分かることがあります。イエスさまは、単に食べ物に満たされたことで王にしようとする群衆に、背を向けます。大切なのはこの世の物質的な富・権力・名誉ではありません。そしてひとり山に退きます。
 さらに舟で逆風のため難儀している弟子たちを救うため舟に自ら乗り込まれます。何がそこで起こっているのか理解できない弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。心が鈍くなっている弟子たちにはその奇跡の意味がまったく理解されていません。しかしこの福音書が読まれる頃、迫害の時代暗い洞窟の中で聴く人々には大いなる福音として伝わっていったことでしょう。