2015年12月13日      降臨節第3主日(C年)

 

執事 アントニオ 出口 崇

『わたしたちはどうすればよいのですか』

 数年前、教区のJ’sキャンプで中高生を連れて保育園に行きました。
 園児たちを楽しませるために色々なプログラムを高校生たちが考え、保育に参加させてもらいましたが、実際は、自分たちが何かをしてあげようと思っている相手から、実はたくさんしてもらっている。自分たちのほうが嬉しい気持ち、楽しい気持ちにさせてもらっている。ということを参加者が体験しました。
 キャンプの晩に、中高生たちの振り返りのミーティングがあり、園児たちと関わって気付いたことや嬉しかったことなど様々な感想を分かち合いましたが、途中から、「保育園は遅くまで子どもたちがお迎えを待っていて、一人ひとりと減っていき、残っている子どもがかわいそうだ」「幼稚園のほうが良い」「いや、色々な家庭の事情があるから保育園は大切なんだ」というような、テレビの討論会のような政策的、制度的な議論に変わっていきました。
 「あれ、おかしな方向に話が進んで行ったなー」と思いながら聴いていましたが、1人の高校生が、「保育園はかわいそうではない」と言い、自分自身の家庭環境や、保育園に通っていた時の思い出など、制度としての話でなく、自分自身の話をし始めました。
 制度がどうこう話していた中高生たちが、1人の仲間の話に耳を傾け、その人をさらに知ろうとする。とても感動的な瞬間でした。
 私自身も時には大きな枠組みで物事を考えてしまいますが、一番大切なことは、「語る人、そばに居る人の思いに心を向ける」ということを改めて思い起こしました。

 『わたしたちはどうすればよいのですか』
 脅迫にも似た洗礼者ヨハネの言葉を聞いた群集、徴税人、兵士が、それぞれ「どうすれば救われるのか」と、具体的になすべきことを尋ねます。まず群衆に対してヨハネは、持っているものを、それを必要としている人と分かち合え、と教えます。
 断食しなさい、苦行しなさい、献げものをしなさいなど、宗教的なことではなく、「あなたのそばに居る人を大切にしなさい」という教えでした。
 また、徴税人、兵士に対しても、ローマ帝国の手先、「裏切り者」と、後ろ指を指されるような仕事をやめろというのではなく、そのままの、今おかれている状況で、神様の御心を行え、「あなたのそばに居る人を大切にしなさい」と伝えます。

 回心する、悔い改める、「神様に心を向ける」ということは、何か特別なことをするのではなく、「そばに居るひとに目を向ける」「そばに居る人を大切にする」という日常生活にもう一度目を向ける、心を向けるということではないでしょうか。