2016年6月5日      聖霊降臨後第3主日(C年)

 

執事 パウラ 麓 敦子 

どん底の状況に訪れる神【ルカによる福音書第7章11〜17節】

 オリンピックイヤーの今年、オリンピックに続いて開催されるパラリンピックの話題をよく見聞きします。パラリンピック選手を取材したテレビ番組の中で、いく人もの選手が、人生の途上で予期せずして身体に重い障害を負った時、自分の人生はこれで終わったと感じ、しばらくは家に閉じこもっていたと話されていました。一時は自ら命を絶とうとさえ思い詰めるほどの絶望の中で、ある選手は、競技場のトラックを車椅子で力強く疾走する同世代の若者の姿をテレビで目にした時、自分もいつかパラリンピックに出たいと思い、もう一度生きてみようという意欲を取り戻したと語っておられました。
 ある時、ナインという町でひとりの若者が亡くなりました。若者の母親は早くして夫を亡くしたやもめでしたが、今、彼女は夫ばかりでなく、大切に育て頼りにしていた一人息子さえも亡くし、絶望のどん底にいました。大勢の町の人々に付き添われながら、葬送の列は墓へ向かいゆっくりと進んでいきます。いよいよ町の門の手前にさしかかった時、そこへイエス様が通りかかられました。やもめを一目見たイエス様は、まるでご自身のはらわたがえぐられるような強烈な感情に襲われます。イエス様は、母親に「もう泣かなくてもよい」と声をかけられ、近づいて棺に手を触れられます。棺を担いでいた人々が立ち止まると、イエス様は死んでしまった若者へ「起きなさい」と命じられました。すると若者はたちまち起き上がり、ものを言い始めました。この状況を目にした人々は、「神が訪れてくださった」と神を賛美します。
 ナインでのこの出来事の興味深いところは、この時、母親も母親と一緒にいた人々も、誰一人として助けを求めていないにもかかわらず、イエス様から一方的に、母親に近づき、言葉をかけ、その息子を生き返らせられたことです。この時、母親は自分の身に起こったあまりの不条理な出来事に、もはや助けを求める力を失くしていたのではないでしょうか。
 私達も、人生の途上でどん底と思える状況に陥り、祈る力もなくなることがあるでしょう。もしもこのどん底の状況が神の摂理だなどと言うのであれば、神などいなくてよい。神が全能だというのなら、一体なぜこんな残酷なことが起こるのだろうかと叫びたくなることがあるでしょう。しかし、ナインのやもめの話を読む時、改めて神は、私達がどん底の状況に陥り、絶望しているところに訪れてくださる方なのだということを知らされます。そして、このことは、墓場へと向かう葬送の列を止め、死んだ若者を再び生かすという業を成されたイエス様ご自身が、この後、無力で無抵抗な一人の人間として十字架にかけられて殺され、復活されるという見事な死への勝利という逆転のドラマを私達に示してくださることで、確かなこととされていくのです。