2016年10月23日      聖霊降臨後第23主日(C年)

 

司祭 バルトロマイ 三浦恒久

絶えず葛藤しながら【ルカによる福音書第18章9〜14節】

 旧約聖書創世記2章に、神が天と地を創造されたあと、人をお創りになり、エデンの園に住まわせたとあります。その時、神は一つの戒めを与えられました。

 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16、17)

 神はなぜ、その実を食べると死んでしまうような木を人の前におかれたのでしょうか。その木の実は美味しそうに見えました。「食べたい、しかし食べると死んでしまう」、そのように神は人を葛藤する存在として創られたのでしょうか。

 同じように旧約聖書申命記(30:15〜20)は、神が人の前に命と幸い、死と災い、また、生と死、祝福とのろいを置かれたと述べています。なぜ神は人の前に命と幸い、生と祝福だけを置かずに、死と災い、そしてのろいを置かれたのでしょうか。神は人に選ぶ自由を与えられました。〈あれか〉〈これか〉、どちらの道を選ぶべきか。やはり神は人を葛藤する存在として創られたのでしょうか。

 そしてイエスは、ルカによる福音書第14章25〜33節で、次のように言っています。
 「もし、だれかがわたしもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

 弟子の条件として、イエスは親兄弟、そして自分さえも捨てなさいと言っています。それは不可能に近いことです。なぜイエスはこのようなことを言われたのでしょうか。イエスの弟子になりたい、しかし親兄弟そして自分を捨てることはできない、このようにイエスは弟子の前に〈葛藤〉を置かれました。人は葛藤する存在として創られたということなのでしょうか。そうです、人は葛藤する存在として創られたのです。
 ところが、人は葛藤する存在として創られたということを忘れてしまうことがあります。そのことへの警告として、イエスは次のようなたとえを語っています。

 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(ルカ18:9〜14)

 人は葛藤する存在として創られたということを忘れると、人は正義を振りかざし、相手を裁いてしまうことがあります。そうではなくて、自分の言っていることは正しいのだろうか、むしろ相手の言っていることが正しいのではないか。そのように葛藤することのほうが人としてのあり方なのだとイエスは言っているように思うのです。

 人は葛藤する存在として、神によって創られたことを忘れずに、そのことを大事にして、感謝して生きていきたいと思います。