2017年10月1日      聖霊降臨後第17主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

「立ち帰って、生きよ」【マタイによる福音書21章28−32節】

 きょうの福音書のたとえで主イエスは、「ぶどう園に行って働きなさい」と言われます。このぶどう園とは何を意味しているのでしょうか。ぶどう園にはぶどうの木があって、ぶどうの実が実るように、神様の命が豊かに実る所を象徴的に表しているのではないかと思います。神様の創造された命が豊かに生かされる所。ぶどう園とはそういう所であり、そこで働くとはそういうことのために生き、働くということではないでしょうか。
 たとえば、実際にぶどう園で働くということを想像してみてください。それは、ぶどうの命そのものが豊かに実るために働くのです。腐らすためでもなく、自分の考えで勝手に違う畑にしてしまうのでもありません。そしてこのことは、私たちが生きる社会においても同じことが言えると思います。神様がお造りになった世界というぶどう園に、家庭あるいは家族というぶどう園に、命の実を豊かに実らせるためにあなたも行って働きなさいと主イエスは言っておられるのです。そこにも神様の創造の命に生かされるべき人たちがいる。心が病んでいる人たちがいる。そこに、あなたも行って、神様が実らそうとしておられる命の実が豊かに実るように、言葉を語りかけ、手を差し伸べ、共に歩み、共に生きる・・・。
 同じ主日(日曜日)の礼拝で読まれる旧約聖書日課のエゼキエル書18章31節・32節で預言者エゼキエルはこのように語っています。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。・・・どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。これが何よりも第1に神様が私たち人間に求めておられることです。「悔い改め、立ち帰って、生きよ」です。福音書の兄の姿はそのことを物語っています。
 では、どこに、どのようにして立ち帰ることができるのだろうか。それを示すために、助け主、導き主としてイエス・キリストは来てくださいました。ご自分を貧しく無にされ、私たち人間と同じ者になられて、すなわち私たちの生活の只中に来てくださったのです。そして死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられた。そのことによって、私たちの立ち帰るべき信仰の道をお示しくださったのです。そして、その信仰の道にこそ復活がある。ぶどう園で神様の命の実を豊かに実らせる、新たな生によみがえる道があることを示してくださいました。
 神様のみ前にひざまずいて、み言葉の光に照らされて、自分自身を見つめなおしてみようではありませんか。私たちは、そのために毎週日曜日礼拝を守っています。大きな恵みの時です。家庭で、職場で、あるいはこの世界で、どんな命の実を実らせているのでしょうか。神様の愛の命の実でしょうか。それとも的を外れた怒りや争いごと、自己満足の実でしょうか。あなたの心は病んでいませんか。衣食住は満たされているのに心が空しさで覆われていませんか。希望を失っていませんか。もしそうだとしても、信じる人の心、ぶどう園に主はきてくださり実を豊かに実らせてくださいます。そしてあなたも行ってそのために働きなさいと言われる。今はできていなくても、その呼びかけに応えて「立ち帰って、生き」る者となれたらどんなに幸いなことでしょうか。