2017年11月5日      聖霊降臨後第22主日(A年)

 

司祭 バルナバ 小林  聡

キリストを師とする恵【マタイ23:1〜12】

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、23:7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

  私たちには、人生の中で師と呼べる人との出会いや、影響を受けた方がいるのではないかと思います。その中には今は天国におられる信仰の先達の方々も含まれるかと思います。師とは先生であり、教師、あるいは仲間であったり、生徒であったり、近所の方かも知れません。今日の福音書には、教師はキリスト一人だけですと書かれています。またその直前にはあなたがたの父は天の父ひとりだけです、と書かれています。
 唯一、ひとりだけ。この一人だけという言葉によって、私たちはこの世にある先生や教師、あるいは師匠と呼ばれる人々を、絶対視することから解放されます。イエス様はおっしゃいます。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」と。実行しないでモーセの座に座ってばかりいるというのです。座とは礼拝の中心に置かれた椅子のことで、権威の象徴です。
 一旦こういった座を作り、それに座り慣れてしまうと言うだけになり、実行が伴わなくなるのは人間の常かもしれません。
 イエス様はもう一度、思いと言葉が一つとなるように、教えと行動が一致するようにと、師と仰ぐ方をただ一人としなさいと教えてくださいます。
 ここで心に留めたいことがあります。それはイエスさまの教えが、ユダヤ教の指導者である律法学者たちやファリサイ派の人々を切り捨てるためにおっしゃっているのではないということです。
 むしろ、自分たちの在り方を振り返り、一緒に生きていくために、唯一の神様と唯一の師を示しておられるのです。
 私たちはこの師の姿に、十字架に架けられる直前にお弟子さんたちの足を洗った、仕える人イエスさまの姿を仰ぎ見るのではないでしょうか。
 この唯一の師である救い主(キリスト)・イエス様を思う時、私はある教会の働き人を思い出します。福井出身で、無給伝道を実践され、敦賀キリスト教会をはじめ京都教区の多くの教会設立に尽力された永田保治郎伝道師(後に執事)です。無給伝道、つまり京都教区(当時は地方部)や宣教団体から給料を貰わないで、神さまの示されるままに働いた生き方をされました。そして後には有給の働き手となられました。
 私たちの信仰の先達には、ユニークで、その人にしか出来ないやり方で、神さまにお仕えした人々が沢山おられたと思います。
 それは、神さまのみを、キリストのみを師とするという生き方から出てきたものだったのでしょう。
 イエス様は今日のみ言葉を群衆と弟子たちにお話になりました。この両者は同じなようで違う立場でもあります。イエス様が気づきを促しておられる「モーセの座」に近い人々が弟子たちであるのかもしれません。しかし、イエスさまの眼差しはそのどちらにも向けられており、膝をかがめ、仕えておられるキリスト救い主の姿のみを共に見つめながら歩んでいくようにと招いてくださっています。この招きこそが私たちへの恵みではないでしょうか。
 今天国におられる方々と、そして地上にいる私たちとが共にこの方に導かれ、一つとされ、共に生きる恵みに預からせて頂きたいと思います。