2017年12月3日      降臨節第1主日(B年)

 

司祭 バルトロマイ 三浦恒久

目を覚ましていなさい【マルコによる福音書13:33〜37】

 保育園の子どもたちと一緒に、牛小屋見学に行ってきました。イエスさまが生まれたとされる家畜小屋を体験するためです。イエスさまが生まれたところはごく普通の生活の場でした。わたしたちといつも一緒にいてくださるためです。本当にありがたいことです。
 クリスマスはイエスさまが、いつでも、どこでも、どんな時でも一緒だよと、約束してくださっている出来事なのです。
 家畜小屋で生まれたイエス。家畜小屋はイエスの時代、ごく普通の生活の場でした。日本でも今は特別な場所になってしまいましたが、わたしが小さい頃は家畜と一緒に生活していた人は少なくありませんでした。イエスが生まれたのはそのようなごく普通の生活の場だったのです。

 マルコによる福音書が執筆されたのは紀元70年頃とされ、イエスの死後40年が経過していました。初期のキリスト教徒は、復活して天に昇ったイエスは間もなく再び地上に姿を現し、現実の悪を克服して神の直接的な支配が実現すると強く期待していました。そして、迫害に耐え、伝道に励んでいました。ところが、その実現が遅れ、イエスの再臨の期待が裏切られているとの意識が信徒の間に充満していました。マルコはその福音書において、なお終末への期待と緊張を強く保持すべきことを説き、目を単に未来に向けて空想的に待つのではなく、イエスの具体的な生き方に注目すべきことを教えました。

 そこでマルコは、イエスが神から与えられた救いの使命を完成するため、十字架の死への道を歩む受難者であることを強調しています。イエスの死の場面を思い起こしてください。ローマ兵の百人隊長がイエスの臨終の場面を目撃した時、
   「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)
 と言っています。イエスは十字架の道を経て神の子となられたのです。
 また、イエスは弟子たちに言われました。
   「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」
   (マルコ8:34)
 「わたしに従いなさい、自分の十字架を背負って」これがイエスの大切な教えなのです。

 「気をつけて、目を覚ましていなさい」とイエスは言われます。何に気をつければよいのでしょうか。続けてイエスは言われます。「その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたにはわからないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」と。
 家の主人から仕事を割り当てられ、責任を持たせられた僕たち。それはわたしたち自身のことでもあります。では、わたしたちの仕事とは何でしょうか。それは自分の十字架を背負ってイエスに従うことです。

 「イエスさまに会いたいなあ」これがわたしたちのあこがれ、わたしたちの信仰です。イエスにお会いするためには家畜小屋にいかなければなりません。家畜小屋にイエスがおられるからです。日々の生活の中で、行き詰ったり、不安を感じたり、悲しみの中に投げ込まれたりします。実はそれらの中にイエスがおられるのだと今日の福音書は語っているのです。