2018年2月25日      大斎節第2主日(B年)

 

司祭 マタイ 出口 創

「命」

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。【ローマの信徒への手紙8:38−39】

 もし宇宙空間で「宇宙服を脱げ」と命じられたら、拒否します。即、死ぬことを意味するからです。人が肉体だけの存在であるなら、死は間違いなく、キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことができるでしょう。私たちが普通「命」と呼んでいるのはこちらです。

 でも死はもちろん、あらゆるものが、神の愛から私たちを引き離すことのできない「命」があるのです。神様が愛している対象である「命」。前者の「命」は後者の「命」の一部分に過ぎないのではないでしょうか。

 「外は体を損なうすべての災いを防ぎ、内は魂を襲う悪念を除いてください」という今週の特祷にも、「(肉)体」と「魂」が出てきますが、医学的意味の「命」が「体」、神さまが愛している対象としての「命」が「魂」なのかと思ってしまいますが、実はどちらも同じ一つの「命」の両側面なのだと思います。否むしろ、イエス・キリストの受難と復活を通して与えられ、イエス・キリストによって示された神が愛してくださっている「命」は、前者後者を合わせても尚足りない、全人格的な一つの「命」です。その「命」の実態や大切さを、本当の意味では、私たちはまだ分かっていないのかもしれません。