2018年3月4日      大斎節第3主日(B年)

 

司祭 アントニオ 出口 崇

『イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである』(ヨハネ2:21)

幼稚園では毎日のお祈りとは別に、週に1度礼拝堂で全園児の礼拝をしています。「神様のお部屋に行く」ということで、お口を閉じて、クラスごとに手を合わせて入堂して来ます。普段の生活の中ではなかなかできない、心を静かにして豊かな時間を過ごします。
けれど、子どもたちに伝えていることは「いつでも、どこにいても、イエス様が一緒に居てくださる」ということ。礼拝堂だけが神様と出会う場所ではありません。

イエス様の「神殿での宮清め」と呼ばれる有名な箇所ですが、人々の信仰を否定したわけではありません。神殿でしか神様と出会うことが出来ない、といった考えを大胆な方法で否定されます。
イエス様の宣教の第一声は『神の国は近づいた(マルコ1:15)』でした。神殿にわざわざ出向いていく、神様に会いに行くのではなく、神様の方から近づいてきてくださる、共にいてくださる。誰に対しても、どこにいても。
私たちの信仰や、資質に応じてという条件があるわけではなく、ただ、神様から尊いものとされている。
イエス様の福音は優しい言葉であっても、今日のような激しい行動であっても、ご自身の苦しみの中にあっても変わることのないものでした。