2018年3月25日      復活前主日(B年)

 

司祭 パウラ 麓 敦子

「十字架につけろ」【マルコ14:32−15:39】

 「十字架につけろ」。群衆の激しい叫び声の中、イエスは十字架につけられ息絶えた。
 かつてはイエスを慕い、「ホサナ、ホサナ」と歓声を上げてイエスを迎えたその群衆は、祭司長たちに扇動され、たちまちイエスを十字架へ押し上げる側へと転じたのだった。
 イエスが十字架につけられていく経緯を記した今週の福音書の中には、様々な人々が登場する。イエスを妬む祭司長、長老、律法学者、欲望に負けてイエスを裏切るユダ、イエスに罪がないことを知りつつも保身に回るピラト、状況を呑み込めないままイエスの十字架を担ぐシモン、ことの本質を知らずにその場の雰囲気に迎合し調子に乗ってイエスを虐げる通りすがりの人々、自らに及ぶであろう危害への恐怖に耐えきれず逃げ去った弟子たち、等々。ここには私たち人間が内に抱えている罪が結集され描かれている。
 私たちが生活している現代の社会の至る所で日々、「十字架につけろ」という声が響いている。私たちは日々、家庭で、学校で、企業で、種々の議会で、地域で、時に祭司長となり、ユダとなり、ピラトとなり、シモンとなり、通りすがりの人となり、弟子たちとなり、隣人を十字架につけ合うことを繰り返して止まない。それを責められても、様々な理由を並べて自らを正当化し、他人に責任を転嫁して、事なきを得ようと躍起になる。
 復活日を前にした今、私たちは今一度イエスの十字架の出来事が意味することを真剣に確認しなければならない。イエスは私たちの罪のために十字架につけられ殺された。そしてそのイエスの死は、イエスを十字架につけた罪深い私たちの罪の赦しのためにほかならないということを、もう一度丁寧に確認しておかなければならない。私たちは、「イエスが十字架につけられて死んでくださったことによって罪が赦された」という言葉の上に胡坐をかいてはいないだろうか。イエスの十字架によって罪を贖われた私たち罪びとの中には、誰一人として隣人を十字架にかける資格を持つ者などいないことを厳しく自らに言い聞かせなければならない。そして、そのような私たちこそが、一人残らず本来十字架につけられるべき存在であるということを、自らに言い聞かせながら、復活日までのこの一週間を歩みたいと思う。