2018年4月8日      復活節第2主日(B年)

 

司祭 マタイ 古本靖久

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」【ヨハネによる福音書20章29節】

 先週、教会では復活日(イースター)のお祝いをしました。今日の福音書はイエス様が復活された日の夕方と、その八日後の日曜日のお話です。
 イエス様の復活のすぐ後ですから、さぞかし弟子たちは喜びであふれていただろうと思いきや、どうもそうでもないようです。彼らは家の戸に鍵をかけていました。「ユダヤ人たちを恐れて」とあるように、自分たちが危険な状況に陥るのが怖かったのでしょう。しかし彼らはこの日の朝、マグダラのマリアから復活のイエス様に出会ったということを告げられたはずです。その言葉が受け入れられなかったのでしょうか。
 わたしたちは先週の日曜日、復活日を祝いました。イエス様のご復活を心から喜び祝うことができたという方もおられるでしょう。しかし同時に、どこか引っかかっているという方もおられるかもしれません。イエス様のご復活が理解できない、自分にとって何の意味があるのかわからない、信じることができないという方もいたのではないでしょうか。マグダラのマリアの話を聞いても信じられず、戸に鍵をかけた弟子たちのように、自分の心を閉ざしてイエス様を受け入れることができない方も。
 今日の福音書は、その恐れや不安の真ん中に来て下さるイエス様の姿を描きます。復活の日の夕方に、そしてその八日後に、「あなたがたに平和があるように」と言われたイエス様を伝えます。この物語はわたしたちに二つのことを教えてくれているように思います。
 一つ目は、イエス様は必ず来てくださるということです。今どうしても心を開くことができなくても、自分のところになんか来てくれるはずがないと思っていたとしても、イエス様はその中に来てくださいます。
 そして二つ目は、イエス様は何度でも来てくださるということです。お墓でイエス様にであったという女性の話を、弟子たちは信じることができませんでした。しかしその弟子たちの元に、イエス様は現れました。さらにその場にいなかったトマスの元に、次の日曜日イエス様は現れました。同じように何度でも、イエス様は現れてくださいます。わたしたちの元にもまた、イエス様は来てくださるのです。
 復活のイエス様との出会い、それは一人ひとりにとって違った物語でしょう。しかしイエス様は、わたしたちのもとに来て、「あなたがたに平和があるように」と語り掛けてくださいます。そのことを信じて、歩んでいきたいと思います。
 わたしたちが信じない者ではなく、信じる者になるために、イエス様は来られます。