2018年9月30日     聖霊降臨後第19主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 荒木太一

聖霊と嫉妬

「主の民すべてが預言者になればよい」(民数記11.29)

 親友は直感的なタイプで「ビジョンを見た」とか、「御言葉がリンクした」とか言う。懐疑的な私は「中世なら魔女裁判やで」と注意しつつ、内心はその霊的な賜物に嫉妬している。

 モーセの後継者ヨシュアは嫉妬した。70人が聖域で聖霊を受けた日、日常生活に残った二人にも霊が降り、神を語り始めた。そこでヨシュアは願う。「わが主モーセよ、やめさせてください。」この嫉妬へのモーセの答えが表題だ。「わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ。」神の霊は、嫉妬も支配も超え、多くに注がれる。

 イエスの弟子も嫉妬した。その御名を勝手に使って悪霊を追放する者たちをやめさせようとした。自分達にはできなかったのだからなおさらだ。(マルコ9:38)しかしイエスは命じた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後でわたしの悪口は言えまい。」(9:39)イエスの賜物を使う人は、自分勝手な側面さえも聖霊に変えられていく。だから正義を振りかざさず、主に委ねれば良いと。

 聖霊は神だ。人は管理できない。聖霊は嫉妬を無視して賜物を与え、また人には嫉妬を捨てさせる。「すべてが預言者になる」その日まで。