2018年12月30日     降誕後第1主日(C年)

 

司祭 パウロ 北山和民

み言葉はこの世にあった。この世はみ言葉によってできたが、この世はみ言葉を認めなかった。み言葉は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。(ヨハネによる福音書1章10節からフランシスコ会訳)
 
 クリスマス、イエス・キリストがこの現実の中に来たという出来事は、神の存在を懸けた後戻りできない大決断でありました。人間に対して裏切られることを想定しない、大決断でありました。
 グループダイナミックス研修で、後ろ向きに倒れて相手が受けて感想を語るという体験ゲームがあります。倒れる側も受け止める側も、勇気と信頼を試されるゲームです。まさに神様が後ろ向きに倒れて人間を信頼してくれた。受ける私たちは「必ず受け取る」という信頼されたものとして「受け入れ」なければならなかったのです。さあ、その信頼のゲームはうまくいったのでしょうか。
 ヨハネは「この世はみ言葉を認めなかった」と書き、このゲームは失敗したかのように書かれているようです。
 世界の悲惨な現状、イエメン、シリアの難民が最悪の状態にあるという、ニュースを聞くにつけ、わたしたちの世界は救い主を受け入れるのに失敗したと考えても間違いではないでしょう。
 本当に失敗したのでしょうか?神は後ろ向きに倒れ、頭をしこたま地面に打ち付けてしまったのでしょうか?
 実はこの失敗ゲームは「十字架」によってまだ終わっていないのです。
 十字架によって失敗したと旧約聖書の枠では考えられるかもしれないが、わたしたちは新約聖書を今も綴り続けることで「希望こそ愛(アガペー)」を十字架の弱さから頂戴しているのです。十字架こそ神を「人間を信頼するしかない」生ける神にし、人間をの「誰もが神に必要とされる存在」にする、神と人の間に置かれたクッションだったのです。
 たとえば金額にかかわりなく、クリスマス献金をイエメンの飢餓のために捧げましょう。これこそクリスマスの分かち合いであります。
 そして究極の分かち合いの形が礼拝となるのでしょう。

以上