2019年6月23日     聖霊降臨後第2主日(C年)

 

司祭 エレナ 古本みさ

「十字架を背負って」【ルカによる福音書9章18−24節】

 今週一週間、6月23日の沖縄慰霊の日を前に、わたしがチャプレンとして遣わされている平安女学院中学校・高等学校では、毎朝聖歌423番「おきなわのいそに」を歌っています。琉球音階のやさしく、ノスタルジックなイメージを醸し出す旋律が女子中高生たちの心を掴み、数ある聖歌の中でも人気の高いナンバーとなっているのですが、その詩の内容は非常に重く、心の奥底深くにずんと突き刺さるようです。

 作詞者の山野繁子司祭は、平和巡礼で沖縄を訪れたとき、浜辺に手作りの木の十字架を立てて何人かで支えながら礼拝をささげたそうです。彼女はその浜辺がかつて血に染まり、大勢の市民たちが暗く暑く息もできないような洞窟の中で集団自決を迫られたことを思いました。その状況はまさに、「救いを求めて叫ぶ声に、主よ、あなたはどこにおられた?」(2節)と嘆き訴えざるを得ないものだったのです。
 この沖縄の苦しみは、わたしたちの住む国、日本の背負う十字架です。そして、現在の沖縄の状況を見る限り、この十字架は、「今も続く痛みのしるし」にほかなりません。けれども、この聖歌はここで終わらないのです。この「十字架」は、「新しいいのち、生き抜くことへのはげます言葉」となるという確信が3節の最後に歌われます。それは、イエス様の十字架がそこで終わらなかった、その後に永遠のいのちへとつながる復活が用意されていたという、絶望に打ち勝つ希望への信仰に基づいています。
 おりかえしでは「命こそ宝」という意味の琉球語「ヌチドゥタカラ」が歌われます。どんな小さないのちも神様から与えられた大切な、かけがえのない宝であるということをわたしたちは覚えつつ、どんな絶望もイエス様の十字架を仰ぎ見る時に希望へと変えられる、死は復活へと変えられ、新しい豊かないのちが与えられることを信じるのです。

 イエスは言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを救うのである。」(ルカ9:24)
 わたしたちが自分の十字架を背負えるのは、暗闇の向こうに光が、死の向こうに永遠のいのちが必ず用意されていることを知っているからです。わたしたちキリスト者がいかなる時もこの希望の光を見失うことなく、今苦しみ涙を流す人々のために十字架を背負う者となることができますように。

(出典:宮崎光著『聖公会の聖歌』p.134)