2019年6月30日     聖霊降臨後第3主日(C年)

 

司祭 マタイ 古本靖久

イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカによる福音書9章62節)

 イエス様に従うとは、どういうことなのでしょう。「わたしに従いなさい」という呼びかけに、わたしたちはどうこたえていけるのでしょうか。
 旅を続けるイエス様の元に、三人の人が来ました。彼らには、イエス様の弟子になりたいという思いがあったようです。しかし最初の人には「わたしに従っても落ち着く所すらないぞ」と言われ、従う前に父を葬らせてほしいという人には「死んでいる者に死者を葬らせろ」と言われます。そして従う前に家族にいとまごいをさせてほしいという人には「そのような者は神の国にふさわしくない」とまで言われます。
 とても厳しい言葉です。イエス様に従うとは、これほどまでに大変なことなのだろうかと、恐れさえ感じてしまいます。父を葬るのもダメ、家族にあいさつするのもダメというのは、わたしたちの感覚からすると、「ちょっと冷たいんじゃないの」と言わざるを得ません。
 わたしは今、牧師として毎日を過ごしています。イエス様に呼ばれ、福音を伝えるために生きているつもりです。しかしイエス様が求めるように、「服従」しているかというと、「そうだ」と胸を張っていうことはできないんですね。いろいろな人のお葬式にも行きますし、献身してからも家族としょっちゅう連絡を取っている。ゆっくりと枕する場所もある。24時間365日、ひらすら神の国を広めるための働きをしているかというと、そうでもない。
 聖書をそのまま読むならば、わたしは弟子の覚悟もできていないくせに従っているつもりになっている者だということになります。そして多くの人も、「わたしもそうなのかもしれない」と思っていることでしょう。しかしイエス様は、自分に従うことの厳しさだけを伝えようとされているのでしょうか。
 「よそ見をしてはダメ」、今日の言葉がそのようにだけ聞こえるならば、わたしたちにはイエス様の言葉の本当の意味が伝わっていないのかもしれません。たとえばお母さんが自分の子どもに「よそ見をしないで」と言うとき、そこにはどのような意味があるでしょうか。まっすぐ前を向きなさいということもあります。そして「お母さんの歩く姿を見て、真似をしなさい」ということも、とても大事な意味です。
 同じようにわたしたちも、よそ見をせず、イエス様の背中を見て、真似ることが求められていたとしたら、どうでしょう。イエス様は様々な人に寄り添いました。病気の人、貧しい人。そして社会の片隅にいた人や追い出されたような人たち、罪人、徴税人、娼婦、子どもたち、そのような人の手を取り、歩まれました。そしてイエス様はわたしたちを生かすために十字架へと向かわれました。
 その歩みを知り、イエス様に倣う。自分のことだけにとらわれずにひたすらイエス様の背中を見続ける。それがイエス様に従うということなのではないでしょうか。