2019年12月29日     降誕後第1主日(A年)

 

司祭 マタイ 出口 創

わたしたちを神の子とするため【ヨハネ1:12、ガラテヤ4:5】

 毎年12月中旬〜1月中旬になると、忙しいと感じています。何がそんなに忙しいのかと、ふと考えてみると、降誕日を中心にして礼拝回数が多い、という理由が真っ先に挙げられます。でも今年は少し、思いつく理由が違っています。礼拝回数が多いから忙しい、という理由は変わらないのですが、それとは別に、ついこの前までは聖霊降臨後の節後半や降臨節で、終末や主の再臨が主題の季節(教会暦)だったのに、初めて主が世に来られたことに強調点が移り、2回目、つまり終末や主の再臨を待ち望むという主題が後退しているからだと思います。平たく言えば、季節(教会暦)の変化に、私が付いて行けないからだと思うのです。
 自身、決して俊敏で気持ちや頭の切り替えが得意ではありませんが、かと言って、そんなに愚鈍でノロマなのでしょうか? そうであっても(多分そうなのですが)、こんなにもドタバタあくせく焦っている自分に、疑問を感じています。
 新約聖書を見ると、マタイによる福音書ではヨセフ、ルカによる福音書ではマリアが中心に降誕物語が描かれています。改めて見てみると、イエスさまが生まれる前、既に、やはりヨセフもマリアもドタバタあくせくしていて、決して何もない平穏ではなかったことが分かり、私だけではないと、ちょっとだけ慰められます。ただでさえ、人ひとりが生まれる前は、とても大変なのかもしれません。その上にイエスさまの誕生は、聖霊によって身ごもったという前例のない非常事態で、ヨセフもマリマも必要以上に大変なことが重なって、恐らく彼らの感覚では、「もう、付いて行けない」、「しっちゃかめっちゃか」だったかもしれません。
 私もそうですし、ヨセフとマリアも、時代の激動に付いて行けないくらいに「しっちゃかめっちゃか」。人ひとりが誕生する前だから当然、ではなく、その子によって「わたしたちを神の子とするため」だったから、尚更だったのではないでしょうか。人ひとりの誕生を通して、無数の人間が、神の子として新たに生まれるから、「忙しい」、「非常事態と言うくらいに大変」、「しっちゃかめっちゃか」なのではないでしょうか。
 イエスと名付けられるキリストの降誕は、そのキリストを通してわたしたちを神の子とするためです。キリストの降誕には、無数の神の子の誕生が含まれているのです。だから愚鈍でノロマな私も忙しい。そう考えると、少し落ち着きを取り戻せそうな気がしてきました。