2020年5月17日     復活節第6主日(A年)

 

司祭 ダニエル 鈴木恵一

 今週の木曜日(5/21)は昇天日です。
 今年は日本聖公会管区事務所から、昇天日から聖霊降臨日の11日間の祈りのしおり『み国が来ますように』が配られました。この冊子では5人の方を心に覚えてその方々のために祈りをささけることが勧められています。復活節の後半は、イエスさまとわたしたちとのつながりに心を向けるための福音書の出来事が朗読されてきましたが、イエスさまとわたしたちのつながりととともに、あらためて人と人とのつながりの大切さを感じます。
 先日読んだ新聞に、医療人類学者の方のインタビューの記事がありました。人と人とが直接であって交流できない今、オンラインで代わりがきかないかという問いに対してこのように答えておられました。「生きる際に、どうしても欠かせないのは体です。オンラインだと移動をしなくていいし、多少体調が悪くてもやりとりしやすい。その意味で体の持つ煩わしさを消してくれるわけですが、私たちが病気にかかり、いずれは死ぬ存在である以上、自分の体の煩わしさをケアしてくれる他者がどうしても必要になる。親密性を担保してくれる他者の存在です。オンラインは、その『体の煩わしさ』を捨象しているので、代わりにはなりません。長い外出自粛が続き、ネットを通じた交流だけでは、こぼれ落ちるものがあるという感覚は、多くの人が抱いているのではないでしょうか」
 教会は今、主日礼拝を休止するなど感染の拡大を防止するためのさまざまな工夫をしていますが、わたしたちが直接会ってお互いの姿を感じながら礼拝をしてきたことの大切な意味を改めて思いました。
 今日の福音書で、イエスさまは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」といわれました。ぶどうの木はパレスチナで古くから栽培されてきました。イエスさまのことばを聞くために集まった人々にもぶどうの木は身近なものでした。ぶどうの木は高くは育ちません。大きくなっても幹とよべるように太くもならず、支柱を立てなければ大きく広がった枝を支えることもできません。イエスさまはそのようなぶどうの木を「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と呼ばれたのでした。どこまでが幹でどこからが枝なのかわかりません。わたしたちのつながりあいそのものがイエスさまということをおっしゃっているようにも響きます。
 人と人とが直接会うことが難しい今、イエスさまの語られた「つながっていなさい」ということにあらためて心を向けるのはとても大切に思います。
 イエスさまはわたしたちに「ぶどうの枝になりなさい」とはいわれませんでした。わたしたちは、すでにイエスさまにつながっているぶどうの枝です。わたしたちのつながりが示すぶどうの枝の広がりはとても豊かなものであることをイエスさまは気づかせてくださいました。
 すでに出会っている大切な人のために、そしてこれから出会う友人のために、祈りあいながら聖霊降臨の出来事に心を向けていきたいと思います。
 昇天日をまえに、イエスさまの姿が見えなくても、わたしたちはイエスさまにつながり一つとされています。わたしたちも、イエスさまからの呼びかけにこたえ、つながりあうものとして一つとなって、それぞれの場で感謝の祈りをささげていきましょう。