2020年5月24日     復活節第7主日(昇天後主日)(A年)

 

司祭 プリスカ 中尾貢三子

わたしたちのように、彼らもひとつとなるためです 【ヨハネによる福音書17:11】

 復活なさったイエスさまは、弟子たちと40日共に過ごした後、天に昇られました。その10日後には、弟子たちの上に聖霊が降りました。この50日間の弟子たちとイエスさまとの出来事をたどる時、私はいつも保育園に初めて通い始めた1歳前後の小さな子どもの姿が思い浮かぶのです。
 子どもは、初めて親から離れるとき、最初はよくわからずに遊びだしてからふと、母親がいないことに気づいて大泣きします。翌日は母と離れるのを嫌がって大泣き。それがしばらく続きます。それでもその子は、母がいない不安や寂しさから、少しずつ周りの友だちやおもちゃ、クラスの先生に気づき、親子という関係から違う世界へと入っていきます。とはいうものの、毎日お迎えのときには泣きの涙でお迎えの家族の胸に飛び込んでいきます。自分がこれまで過ごしてきた馴染みの安心できる場所から少しずつ新しい世界へと歩み入る時、一気にすべてが新しくなると考えてみてください。わたしたち人間は果たして耐えられるでしょうか。小さい子どもがお迎えに来た家族(なじみの人の胸)と新しい世界(保育園の友だちや先生)を行ったり来たりしながら、少しずつ自分自身の世界を見出していきます。イエスさまの死と復活を経験した弟子たちもまた、復活のイエスさまに何度も出会いながら、イエスさまが生きておられたときのように、ずっとその存在が身近にあるわけではないという現実とを往来しながら、少しずつ弟子たち自身の信仰の軸足が育っていったのではないかと思うのです。そして弟子たちが、肉体を持ったイエスその人という存在を支えにしつつ、神さまの支えと導きがあれば、彼ら自身が信仰をもって歩むことができると見極めて、イエスさまは天に還られたのではないでしょうか。
 ヨハネ福音書では、イエスさまは最後の晩餐のあと、告別説教と言われる最後の教えを宣べ、この17章で弟子たちのために祈られました。それはご自分が彼らを残して去らなければならないこと、去ってしまった後に彼らを襲うであろう苦難のことを覚え、神さまに彼らを守ってくださるように、そして神さまとイエスさまがひとつであるように、弟子たちも皆が神さまのもとでひとつとなるように、と祈られました。それは、弟子たちが自分の足で信仰の道を歩み始めるということは、リーダー(イエスさま)を失いバラバラになるかもしれない可能性をも秘めていることをご存じでした。だから、そうならないようにと祈ってくださっているのです。神さまは、弟子たちばかりではなく、わたしたち一人ひとりもまた、自分の足で信仰の道を歩む存在として認めてくださっています。自立/自律した存在であるということは神さまから離れ、仲間から離れてしまう可能性をも与えてくださっているのです。それに対して神さまがなさるのは、わたしたちのためにひたすら祈ってくださることなのです。それは、まさしく自分の人生を歩み始めた子どもを、ひたすら祈りを持って見守る両親や家族の姿に重なるのです。
 しかし神さまは決してわたしたちから目を離されることはありません。それはイエスさまが弟子たちのために、わたしたちのために必死に祈っていてくださる姿に現されています。何があっても私たちから離れない、わたしたちを一人にはしないという意志こそが、神さまからの愛に他ならないのですから。