2020年6月7日     三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(A年)

 

司祭 クリストファー 奥村貴充

電車内に掲示されていた就活関係の広告に学生を励ます目的で「ともにいるよ」という文言を見たことがありました。その広告を見た学生、たとえ不本意な結果だったとしても、次の面接はしっかりいこうと勇気づけられた人もいるに違いありません。

今日の聖書朗読箇所は、福音書はマタイによる福音書28章16節〜20節です。ここではイエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語っています。イエスの昇天にあたって、弟子たちを宣教に派遣される際の言葉です。しかし、弟子たちだけで宣教をしていくのではありません。イエスは聖書の別の箇所で聖霊を与える約束をしています。弟子たちが勇気づけられ、宣教のために立ち上がっていけたのは、自分たちだけではなくて聖霊の導きのもとで神と共にいるという関係があったからです。

さて人間社会の中には生きる力が萎えていくような関係と、逆に希望が与えられる関係があります。私の昔の知人は上司からのパワハラで鬱状態になりましたが、これはむしろ出会うんじゃなかったといえる関係でしょう。そうかと思いきや、生き生きとプラス思考にさせる関係も見られます。暗いことばかりではなくて、たまにほっこりとさせる出来事があるのが人生なのかもしれません。例えば私は中1の時に行き詰まりを感じていた時があって、そんな時に「ええ話しがあるんや」と友人が話しかけてきたことがありました。この時、生徒の間で教会学校に行くことが流行っていて、初めて礼拝に出席するきっかけを与えてくれたのはその友人です。「ええ話し」、福音を聞けました。また子ども向けの聖書通信講座で私たちのために神が共におられることも知りました。今から思えば、その友人を通して導いて下さったのだと思います。自分は1人ではない、神が共におられる。そういうふうにして新しい第一歩を歩んでいける確信を得ることが出来ました。

イエスの弟子たちも同じです。私たちは次のようによく考えます。例えばあの聖ペトロだから偉大な働きが出来た、と。しかし聖人だと言われる人でも人生の壁にぶつかりました。そのような時でも、神は様々な仕方で、ペトロらしく生きられるように共にいて、ペトロの救いのために共にいて、そして共にいて導きを与えたからこそ、宣教の歩みを進めていけたのでした。私たちも失敗や挫折を味わうことがあります。その時に私が思い起こすのは「わたしは……共にいる」の聖句です。いつも神が「共に」いて下さるのだという確信を得るときに新しい道が拓かれていくのです。