バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 6) (2)鳩

 

 

しかしその時、主ご自身が私たちに近づき給うのです。主の愛が、私たちを強く捉えて下さるのです。そして、私たち自身、又私たちの周囲の信仰の歩みを振り返って見ますと、私たちは集団の中の一人でありながら、孤独な単独者です。夫婦でさえ最後の場面では、主キリストと独りで対面するのです。いや、主イエス・キリストの目は、私独りに注がれているのです。私たちはひとりでに、礼拝の姿勢をとらざるを得ません。この人、一人のらい者もひざまづきます。「御心ならば」と。彼は主の御意志を問うのです。主の御意志に一切が支配されているのです。主も、ゲッセマネの祈りにおいて、「みこころのままに」と祈られました。私たちはともすれば、自分の願いにしがみつきますが、自分の意志を制御することも大切である事を学ばねばならないのです。私たちのそのような遠慮を乗り越えて、神様のご恩寵、イエス・キリストの愛と恵みは、働いて下さるのです。私たちの信仰、神に対する信頼において。
でも現代において果して信仰はあるのでしょうか。現代のただれ切った文明の中で。私たちはらい病にかかるよりもっと汚れているのではないでしょうか。最も大きな汚れは、拝金主義です。その底を支えている「自分さえよければ」と言う「自己中心」が根本問題。そして問題は現代に始まるのではないのです。人類の歴史と共に古い罪の問題があります。その罪ある人々に、主イエスが、「わたしの十字架を信じなさい。わたしがあなた方の罪を、十字架の上で拭ってしまったのです」と言われます。それでも、「私は特別深い罪を持っているから」と思い悩む人もいます。その時主イエスは、深く憐れんで下さるのです。彼――らい者――に触られたように、手を伸ばして、私に触って下さるのです。そして「私の意志である。清くなれ」と言われます。彼は先ず憐れみ給う。機械的にいやし給うのではなく、ご自身にその人の汚れを、病いを受け、担い給うのです。
まことに、彼はわたしたちの病を負い、
わたしたちの痛みを担った。だが私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は
わたしたちの背きの罪のために刺し通され、
わたしたちのとがのために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:4〜5)

一方、イエスは、やみくもに律法を破られる方ではないのです。ちゃんと秩序はお守りになる。清められたその患者を律法どおりに祭祀の所に行って、清めの儀式を受けるように指示されるのです。所がこの人は自分が人にちやほやされることだけを望み、イエスの望みである宣教の事を考える事が出来なかった。つまり彼の「自分が救われた」ことの言い広めはユダヤ当局に、イエスは民衆を扇動する者ではないかと疑われ、イエスは町に入り会堂で公に宣教する事が出来なくなるのです。私たちの信仰にも拘わらず、私たちにも宣教を妨げる要素が往々にして無意識に出てくるような事がないように留意すべきですね。

 

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