バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 6) (4)鳩

 

 

 そこへ別の目的を持った4人の人々が戸板に乗せた1人の中風患者をつれて到着します。彼らは遅すぎた。もうそこは一杯です。キリストとの出会いは何時でも会えるといったものではありません。彼らにはこの機会を逃さないと言う決断が必要です。この人たちは引き下がらなかった。非常識にも、屋根の上に上って、屋根をはぎにかかったのです。私は始めてここを読んだ時、あきれました。世の中には秩序と言うものがある、イエス様もその事が大切であると知っておられる筈だ。何故このような事を許されたのか、と思いました。今は、この事を肯定できます。恵みの失われた時に、その時のうちにあって、恵みを獲得しようと彼らは決心したのです。凄まじいキリストへの肉薄を始めたのです。これが信仰です。マルコ教会は、嬉しいことにこの肉薄が起こっています。沢山の方々が洗礼によってイエスに肉薄始めておられます。目的は手段を正当化する、と言う言葉がありますが、如何に崇高な目的でも、何時でも神の栄光を表すとは限らない。何故かと云うと、必ずその目的手段の中に自己実現を含んでいるからです。唯ひとつ、キリストの前に出るためであるなら、屋根をはぐことも許されるのです。キリストの前に自分を差し出すとは、キリストによってのみ救われる罪びと、全く無価値な者、無能力者と自分を認め、自己実現といった目的が自分にない事は明らかだからです。キリストに接近することに私たちはもっと強引になるべきです。そうすれば、イエスが私たちの信仰を認めて下さるのです。しかしこの人たちは本当に信仰があったのでしょうか?病人をイエスに会わせて癒して頂こうとする熱心さの事が、果たして信仰と言えるかどうか?でも、わたしたちの目からは信仰だと思ってはならないような判断を尚「信仰だ」と拾い上げてくださる方、イエスがおられるのです。私たち自身が「信無き我」として進み出ざるを得ないような時、彼は私たちの信仰を見てくださいます。ここでも彼らの信仰を見られた、と書いてあります。彼らとは、勿論この連れてきた一団です。つり降ろされた人ひとりをさすのではありません。それでもこの一団の信仰を代表するのは?イエスは、中風の者にお言葉を与えておられるのです。その人の信仰が、「あなたの罪は赦された」との宣言を受けたのです。ですから、私たちも、ひとりの人間をキリストの許に送り込むように励ましを受けるのです。病人が居るから、信仰が成立するのではないのです。キリストが居られるから信仰を取り上げて下さるのです。今日もその事が起こっています。

 

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