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104代カンタベリー大主教 
ローワン・ウイリアムス師からのクリスマス・メッセージ

 キリスト教世界の偉大な宝物の一つは、中世期以来受け継がれてきたすばらしい英語のクリスマス聖歌やカロルであります。最近の作曲家たちは今でもこれらの美しい、しばしば感動的な歌詞に曲を付けようとしています。「こんなに高貴なバラはありません。イエス様をお生みしたバラですから」の言葉から始まるカロルをお聞きになった方は多いでしょう。これは人類の歴史という冷たい大地から咲き出るバラのような姿としてマリアを描く古い伝統からきています。

 しかし大切な言葉は第2節に出てまいります。「このバラに、この小さな空間に天と地が入っているんですから」

 聖パウロがコロサイの信徒へ書いているようにマリアの胎内におられるイエスはすでに、満ち溢れる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っておられる方なのです。永遠の神のみ子は宇宙の中に閉じ込められるような方ではありません。彼が宇宙のすべてを包み支えておられるのです。天と地は彼の命の賜物によって生かされているのです。(聖ヨハネ福音書は「言葉の内に命があった」と告げます)

 そしてここに、マリアの身体の小さな空間に、神様の満ち溢れる豊さが生きています。

 イエスが生まれられた時、もう一度パウロを引用すれば、この「満ち満ちた豊かさであなたがたすべてを満たしてくださるお方」は布に包まれ飼葉桶の中に寝かせられました。十字架の後、この満ち満ちた神様の命は墓の中に納められてしまいました。神様が私たちとともにいてくださる様は威厳をもって私たちを圧倒されるのではなく、ご自身が小さな空間に住み、そこから小さな声で私たちを信仰へと呼び出されるのです。

 深い静かさの中でのみ、私たちは聞けるのです。本当に静かにたたずむときにのみ、私たちは神様を迎えられるのです。胎内に宿ったばかりの、赤ちゃんのときの、ガリラヤで歩き疲れた、そして十字架の上の「神の満ち満ちた豊さ」に向かい合うときに、私たちは自らを厳しく見つめなければなりません。そしてイエス・キリストの中の神に出会うあの小さな空間に入っていくには、私たちを余りに巨大で動きにくくしているのは何なのだろうかと問わねばなりません。

 それは私たちの富かもしれないし、保身かもしれません。私たちの野心かもしれません。また私たちの力強い、気高い、あるいは神々しい自己イメージかもしれません。世界は、そして教会は、まだ相変わらず慢心や高ぶった自己理解に取り付かれ、周囲の人を押しのけ神様を押しやる、私やあなたのような人々で溢れかえっています。クリスマスにあたり、私たちは何よりもまずキリストが、繰り返し繰り返し語っておられることを思い出さなければなりません。キリストの小さな空間に入っていくには、傲慢な自信、虚勢、騒々しい不安、気まぐれなどの大きなお荷物を放り投げなければ道はないということです。

 そしてこのお荷物を脇に寄せるとき、その小さな空間にだけ私たち皆のために十分な場所があるのに気が付くでしょう・・・赦され、招き入れられ、神様が私たちと分かち合うことを楽しみにしておられる命と喜びの満ち溢れた豊かさの世継ぎとされる私たちのためにです。馬小屋の低い間口の向こう側に無限の空間が広がっています・・・そして、さらにそれは無限の恵みと愛の世界です。遠くにおられる神様に目を凝らすのではありません。小ささと謙遜さに欠ける私たちには入れない、あの空間の中に真の豊かさを持って神様はおられるのです。
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