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日本聖公会各教区報のなかから
☆毎月、広報主事宛におくっていただく各教区報のなかからご紹介しております。

その時その時生かされて
                                     「大阪教区報」(第368号・20034月20日発行)

定年退職を迎え、ふと70年を振り返ります。関東平野の田舎町・埼玉武州松山町の八百屋の家に生まれ育ちました。町を一歩出ると雑木林や畑で、近くの川では鮎や川魚がよく釣れました。この川の辺りに、今は原爆の図で知られる「丸木美術館」が建ちます。

私の小学校は、尋常小学校・国民学校・新制小学校と、三度名前を変えました。第2次大戦下で、町の郊外に、零式戦闘機の地下工場と、それを飛ばす飛行場が作られていました。それの燃料になる松の根を掘りに、先生に引率されて勉強よりも毎日働きに行きました。小学校を卒業したら、軍を志願して国のために戦うつもりでした。もう少し戦争が続いていたら、生命は無かったと思っています。

 戦後になると、急に先生や周囲の人たちの教えることや言うことが変わり、何を信じてよいのか分からなくなりました。そんな時、友達に誘われて町に一つある教会に行きました。よく分からないまま聖書を読み、イエスさまという方は信じられる方であるという想いが湧きました。青年会員だけで120名ばかりいて、学校が終わるとそのまま教会に行く日々が続きました。

親の意に反して牧師になる決心をしたので、大学では奨学金で授業料を払い、授業が終わると、その足で工場に行って働き生計を立てました。当時住んでいた東京九段の学生会館は、当時最も激しい学生運動の拠点でした。神学生の時は安保闘争でデモをして、国会に突入し警棒で殴られたりしました。

北関東教区で執事・司祭に按手され、幾つかの教会で働きました。当然関東のどこかの田舎町で定年を迎えると信じ、この日を大阪で迎えるなどとは全く思いも寄らないことです。振り返ると、ただひたすらイエスさまに従って生きてこられたことは、文字通り恵みのひと言です。また時間の許すかぎり、日本の故郷・関西の地を訪ね、その豊かで良いものに接することが出来たのも、また感謝です。

人間が生きるのに最も大切な心と言葉は、「感謝・有り難う」です。沢山の方々からこの言葉をいただき、また私も妻も度々口にしました。そして現職最後の夜、4人の子供たちからも電話が掛かりました。「お父さんお母さん、長い間本当に有り難う」。

この8年間、大阪教区の全ての方々に、心からの感謝を申し上げます。本当に有り難うございました。 (主教 オーガスチン高野晃一)


○読者から

 祝御復活。いつも管区事務所だよりをお送りくださいまして有難うございます。4月号の巻頭「今、失ってはならないもの」を拝見し、司祭様(三鍋総主事)のお父様が船員でいらしたことを知りました。実は私の父も戦前は欧米航路を往き来する商船(川崎汽船)の機関長でした。戦時中、御用船にされ、暁部隊に所属していましたが、昭和18年パラオ諸島沖で魚雷により沈没させられ、戦死致しました。私が小学四年生の時です。いつの時代も、為政者によって戦争が始められますが、悲しむのは弱い立場にある者なのですね。白いハンカチに「地に平和、武器より花を」と書いて、沼津の町の小さな小さなデモの列に、どこのグループにも属することなく、一人で連なりました。主の平和!!        (RYK)

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