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■管区事務所だより第199号もくじ■

Page1 □ハリケーンの災害に思う □スリランカ大津波の被災地で □CCA津波視察報告
Page2 □会議・プログラム等予定 □常議員会 □主事会議 □各教区・神学院・その他 □人事・移動
Page3 □60年目の広島 □長崎原爆の日記念礼拝 □日本聖公会人権セミナー開催 □図書紹介 『ウォーラー司祭 その生涯と家庭』


 
管区事務所だより
2005年9月25日 第199号
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□ハリケーンの災害に思う □スリランカ大津波の被災地で □CCA津波視察報告

ハリケーンの災害に思う

管区事務所総主事 司祭 ローレンス 三鍋 裕
   暑さもやっと終わりそうですが、災害の多い年ですね。先日の大雨では私の住む杉並区下井草の洪水もニュースで報じられました。今日は幸い台風17号が東にそれて一安心。米国南部はハリケーン・カトリーナの大被害の後にハリケーン・リタが上陸していますので心配しています。勢力が弱くなったといえ長時間の雨の危険がありますから。カトリーナで決壊した堤防は応急修理しか終わっていませんし、すでに一部は再浸水とか。いや、まだ前回から水の引いていない地域は再浸水とは言わないかもしれません。

 カトリーナの被害も、あの豊かなお国のことだから大した被害にはならないだろうと思っていました。皆さんすでに報道でご存じのとおり、いろいろな問題が浮かび上がっています。犠牲者の数さえまだ分かりません。戸籍や住民登録の制度が違うようで、誰がどこに住んでいるのかも掌握しにくそうです。

 阪神淡路大震災のことを思い出します。もちろん悲惨な大被害でした。しかし淡路地区では、どの家のお年よりはどの部屋で寝ているかお互いに承知していて迅速な救出活動が出来たといわれます。地域共同体が生きていたのです。神戸でも在日朝鮮人の子供たちが通う学校も救援活動に開放されたし、山口組さえ「普段お世話になっているご近所の皆さん?」に井戸の使用を提供したと聞いています。大韓聖公会の青年もボランティアに駆けつけてくれました。大きな悲しみではありましたが、復興を続けています。あの避難所の様子を見た外国のメディアは「暴動が起こらないのが信じられない」と報じました。

 カトリーナ被害の様子については安全なところから気楽に非難めいたことは言いにくいし、メディアの情報もどこまで信頼できるのか不安ではあります。しかし伝えられる限りでは最も豊かなお国の中で、貧しさの中に取り残された人々が一番大きな被害を受けたようです。多くはアフリカ系住民と伝えられています。日ごろの不満が爆発したのか、あまりの悲惨さの中で人間性を失ったのか、暴動、略奪、女性への乱暴も多発したそうです。市民の助け合いだけが頼りの状況の中での残念なニュースです。緊急事態であったにしろ、病人や高齢者が置き去りにされたとも伝えられています。少なくとも貧富の差が被害状況に偏りを生んだことは確かなようです。確認のしようがありませんが「貧しいあなたがたには避難所の生活のほうが良いでしょう」と見舞いに来て失言した政府高官夫人までおわしたそうです。家族や家を失った人々にですよ。失言とは「心の中では本当に思っているけれども、言っては相手を怒らせては面倒だから言わずに我慢するはずだのに、うっかり忘れて言ってしまうこと」ですよね。事実関係はともかく、まことしやかに日本の私にまで伝わる背景はあるのです。

 米国南部ではハリケーンは珍しいことではありません。堤防の弱さは指摘されていましたし、楽観視して避難しなかった人もいたようですが、地震とは違って避難させる時間もあったのです。防災や救援に当たるはずの人員はイラクに派遣されていたとも言われますし、イラク戦争の莫大な戦費は本当に最優先にされる予算支出だったのでしょうか。もっと優先されることはなかったのでしょうか。ハリケーンに限らず、貧富の差が紛争の原因になっているのを「人民のため」のお国の政治家はどう考えているのでしょうね。

 私には今回の災害は天災ではなく人災に思えるのです。カトリーナ被害だけではなく、多くの天災は防ぐことが出来るはずだった人災部分の被害を含みます。人間には天災は防げなくても人災は防げるし、防がなければなりません。もちろん争いも人間が始め、人間の責任で解決しなければならない最悪の人災です。地球温暖化が海面温度の上昇をもたらし異常気象の原因となるのは、もう仮説ではなく現実のようです。人間と環境へのやさしさが求められている時代ではないでしょうか。
カトリーナ被害に対してはお預かりしている海外緊急援助資金から1万米ドルを米国聖公会Episcopal Relief and Development Fundにお見舞いとしてお送りしました。

 総裁主教から丁重なお礼状がきております。被害の大きかったルイジアナ教区と姉妹関係にある東北教区も募金を始めておられます。お志がございましたら東北教区あるいは管区事務所にお寄せください。もちろん直接米国にお送りくださっても喜ばれるでしょう。また、これを機会に重債務最貧国復興援助資金や海外緊急援助資金を用いての困難の中にある人々への働きをも、お祈りの中にお憶えいただければ幸いでございます。




■スリランカ大津波の被災地で
北関東教区 司祭 フランシス 秋葉 晴彦
 わたしたちがスリランカ東部のバッティカロアを訪れたのは、2004年12月26日の津波被害から半年ほどが過ぎた、7月の日曜日のことだった。日曜日には多くの人々が、自分たちの家があった海岸近くの場所に戻ってきていた。

 ある家の前に何人かの人が静かに集まっていた。家そのものは部分的にしか破壊されていなかったので、この家の人たちはさほどの被害を受けなかったのだろうと、わたしは思った。その家に住んでいた夫婦は助かった。しかし3人のこどもたちは津波から逃れることができなかった。悲しみに暮れた夫妻は服毒自殺を図り、一人が死に、ひとりが病院に送られた。それが8日前のできごとだと、集まった人たちのひとりが説明してくれた。彼らは自殺を図った夫妻の親戚の人たちだった。だれもが家族のだれかを失っていた。井戸のそばに座っていた男性が、「わたしも死にたい。わたしを残してみんな死んでしまったから」と語った。

 これが津波の半年後に出会ったひとつのできごとだ。痛みや悲しみは癒されてはいなかった。数多くのNGOがあちらこちらに仮設住宅を建てていた。衣食住に関しての援助は進められている。しかしこの人たちの悲しみにだれがかかわっているのだろうか、と考えさせられた。

 バッティカロアは紛争地域でもある。シンハリ人とタミール人のあいだの内戦状態が激化したこの20年ほどの間に、国内での相互の憎悪は解きほぐすことが困難な状態に陥った。わたしたちが話をきいたタミールの男性は、内戦が激化した直後に被害にあっていた。シンハリ人の警官が女性に暴行しようとしていたのを止めたことによって恨みを買い、深夜警官たちの襲撃を受けた。手投げ弾で子どもが殺され、生き残った者は全員上腕の真ん中で腕を切断された。何の補償も受けることができなかった。

 このようなできごとはどちらの側にも無数に存在するはずだ。援助物資もシンハリ人による政府の手の内にあり、タミール人には援助が届かない現状がある。そのため、タミール人の生活する地域に入ると、風景が突然荒れ果てたものとなる。内戦の難民たちがヤシの葉で急場をしのぐために建てた小屋が随所に打ち捨てられている。転々と戦火を逃れているようすがそこからわかる。津波が起こらなかったとしても、スリランカの人々にはすでに大きな苦しみがあり、憎悪は消し去りがたく存在する。タミール人殺害事件によってわたしたちの旅程が急遽変更され、事件があったトリンコマレーにはとうとう行けなかった。また8月にはスリランカの外相が暗殺された。これらのことは、現在は一応保たれている停戦状態だが、それが非常に脆いものであることを感じさせる。

 今回の会議はアジアキリスト教協議会の主催によって7月12日から21日まで行われた。香港とインドから「観光化」の問題の専門家が多く集まり、観光にかかわる問題も多く取り上げられた。スリランカは観光立国として外貨を獲得している。海岸部も美しいが、高原に上がればそこは野生動物の宝庫となっている。1965年にこの国で初めて外国人向けのホテルが建てられた。その地であるニゴンボに行ってみると、急ピッチで再建されたホテル群は、すでに再稼動していた。現地の新聞社のスタッフと話したときに、小児性愛者の問題を聞かされた。観光客が地元の少年少女たちを買う。最年少は5歳だという。今やタイ、カンボジアと並んでこの国は有名になってしまっているという(日本ではこの問題は、たとえばタイから少女を連れてくる人身売買の問題として存在する)。家族の貧しさが利用されてしまっている。そして、津波が来なかったとしても、この国の全域で、観光化に伴う小児性愛者の存在が家族を壊し、コミュニティを壊している。

 このほかにも観光に関しては環境が損なわれることが問題とされていた。また観光以外にも、男尊女卑の発想が存在するため、女性が社会の見えない部分に押しこめられているという問題もある。見てきたすべてを語るには紙幅が足りない。これがスリランカの現状だった。津波被害に対する援助が行われれば、それですべてが解決するというような単純な状況ではない。

 それではわたしたちはどうしたらいいのだろうか。津波被害に対する緊急援助はもちろん必要とされる。しかしそれとは別に、この国の長期的な復興にかかわる献金が集められ、プロジェクトが組まれる必要がある。そして方法としては、ただ単に献金を集めて送るのではなく、だれか人材を派遣し、その人が現地の村で生活する中で何が必要であるかを見極め、あるいは村の人々と協議し、それに対して支援を行うというかたちが求められる。実際にひとつの村の必要として浮かび上がってくるのは、事業を始めるためのミシン一台であったり、家畜ひとつがいであったりすると思う。そこに至るまでのプロセスには時間がかかるはずだが、わたしたちは時間をかける必要がある。そして教会から教会、あるいは管区から管区へとお金だけが流れるという方法ではなく、互いの顔が見える関係の中で援助を行うこと。そのためには誰かが現地にいること。

 そのようなかたちへと、わたしたちの「援助」を変えていくことが必要とされる。それがなされないと、スリランカのように問題がいくつもの層をなし複雑に絡まっている国にかかわることはできないと思う。

 顔の見える関係の中に生きることを通して、援助を行っていたはずのわたしたちが実は豊かなものを相手から受けとり、わたしたちの教会が活性化されるということもまた、必ず起こるだろうとわたしは考えている。



■CCA津波視察報告

 Sri(光り輝く)Lanka(島)〜津波と内戦そして私たち
京都教区 田辺聖公会 木川田 道子
 インド洋大津波から半年経った7月、私は管区から派遣された一人として日本から飛行機で約8時間ほどの島国、スリランカでの津波被害視察に参加する機会を得た。

死者・行方不明者4万人
 9日間にスリランカのほぼ半周にあたる沿岸部を見てまわった。南部のTelwattaという町では電車ごと波に流され2千人が亡くなったという。線路の近くにいると女性たちが集まってきた。その中の一人の人が持ち歩いている写真の束とアルバムを私たちに見せてくれた。「これが夫」「これはこの人の娘。結婚したばかりだった。」「これは息子。出稼ぎに行って帰ってきたところだった。」「これは隣人」彼女は英語を話し、この地区の女性のリーダー格のような感じだったが、まくしたて怒っているようなその口調には、行き場のない怒りが感じられた。

 ・・・この国に来るまで「4万人」という数字は、「未曾有の大災害」として私の中で一括りにされていたが、この時この災害が一人一人の失われた家族の物語として初めて私の前に現われてきた。写真を一緒に見ることも、「何とかして!」という彼女たちの訴えを聞きつつどうすることもできないことも辛く感じた。政府から毎月支給されるはずの一時見舞金も途絶え、その場所では今は物乞いをする人が増えているという。津波による失職者は国全体で27万人、家を失った人は40万人だという。船や網を流されて仕事がない人、海の仕事は怖くてできなくなった人、逆に政府の防災対策(浜から100メートルを無人緩衝地帯にする)のために海から遠ざけられ、「海で死ぬ方が納得できた」という漁師、数ヵ月後の雨期が来たら水没するようなところに建てられた仮設住宅に住む人たち、JICAの関わった遊具付きの公園まである仮設集落もあれば、がらんとした海辺に薄いトタン屋根の仮設住宅だけ建ててもらったがそれきりにされている被災者たちもいた。

 東部に行けば「私たちに対して政府は何もしてくれない」という、この国では少数派のタミール族の人たちがいた。膨大な数のNGOが入り援助に関わったが、住民との連携がうまくなかったり、中途半端な関わりであったり、NGO同士の連携がなかったり、ということもあったようだ。その中で南部Tangallaの近くの集落ではお寺がコミュニティーセンターのように機能しているところがあった。そこも大部分水につかり大事な経典や僧服も流され、私たちが行った時も再建途上だったが、津波以前からその地域のクリスチャン、仏教、モスリム、聖公会のシスターらが宗教を超えて人権に関する組織をつくって活動していたそうだ。津波後も一層協働して住民主導の復興活動や地域づくりにあたっているという。「our future」と私たちの一行の誰かが言ったが私も本当にそうだと思った。

内戦
 視察の間たくさんの検問所を通った。タミール族の分離独立派(LTTE)が拠点とする北部へ近づくほど、検問所は要塞のように大掛かりになってきた。コロンボの町中でも暗闇に銃を構えた兵士が見回ってきたところに出会い、こちらは何もしてないのにびくついてしまった。多くの人々はこの戦いに無関係だし、平穏な生活を望んでいるだろうが、この戦いの渦の中に否応なく巻き込まれて暮らすことになる。数年前に政府軍にLTTEと誤射されて手術を繰り返す少年も津波を生き延びた。しかし、この先、平和でないと何もかもが前に進まないと感じた。

私たちの、あり方
 視察の途上で、日本人の商社マンに出会った。彼は、日本のODAによるビジネスチャンスを探して道路や橋の壊れたところを見てまわっていると言った。貪欲な日本人はしかし彼だけでなかったと思い知らされたのは西部の海老の養殖池に行った時だった。広大なマングローブ林を世界銀行が国の債務返済のために海老の養殖場に作りかえることをすすめてきたが、海老の病気や化学物質の影響、塩害などで結局養殖はうまくいかず残ったのは草一本生えなくなった土地とゴーストタウンだけ。マングローブ林があれば良い漁場にもなったのに、今では飲み水さえ飲めない不毛の土地となっていた。

 失われた自然を元に戻すには壊した以上の莫大なお金と時間がかかる。海老を食べたいのは私たち日本人だが、この池がどうなったところで私たちは痛くもかゆくもない。しかし、この国の人たちにとっては、借金を抱えている上にまた更に負の財産を背負わされることとなった。

 外国の援助、出稼ぎ、プランテーション農業、安い女性の労働力が支える縫製業などに頼ってきた経済。問題の多い観光開発そして子どもも巻き込んだセックス産業。津波はこの状況に追い討ちをかける。私たちが、こんな彼女ら彼らと同じ側にいるのか、搾取する側にいるのかは明白だ。津波は天災だが、世界の富の一端を担ってきた私たちは、この国というより、日本やいわゆる先進国と言われる国の社会のあり方の方こそ変えなければ、根本的には何も変らないだろうとも感じた視察だった。

 Sri (光り輝く)Lanka(島)はその名の通り大変美しい魅力ある島だ。カルダモンの実を砕いていれてくれた香り高いミルクティーやヨーグルトをいれて売る素焼きの壷、種類が豊富でおいしい果物、沐浴する人、万能の神様にこぞってお参りに行く巡礼者の群れ、裏町に迷いこんでも人々は親切に声をかけてくれた。自立に向けての協働の中からでも私たちが互いに学び合えることは多いと感じた。



管区事務所だより Sep. 01

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