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東京教区主教按手式説教


イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。…」
(ヨハネによる福音書20・21〜22)


一九八八年以来東京教区主教として永らくその職責を果たされ、本日をもって退職される竹田真主教の後継者として、植田仁太郎被選主教を東京教区第8代の主教に按手聖別する今日のこのサクラメント。このサクラメントを祝う、大きな群れの一人に加えられたお恵を、先ずもって感謝し、また、私たちが今日ここにおいて行うすべての事が御心に適うものとなり得ますように、聖霊なる神様の親しきご臨在と御導きとを皆様と共に切に祈り求めたいと思うのであリます。

ずいぶん昔、東北の盛岡の聖公会で、まだ駆け出しの司祭であったころ、東京から一人の青年が訪れて来ました。牧師館でいろいろ話をしているうちに、ちょうど大斎節にあたっていたのでしょう、当時大斎節第三主日の福音書として読まれていた有名なイエスのたとえ話(ルカ一一・一四〜二八)が話題になりました。家を縛麗に掃除して、汚れた霊を追い出しても、もしそのまま空き家にして置くならば、他の七つの悪霊を連れて戻ってきて、状態が前よりも悪くなるだろうという、誰でも良く知っているあの譬え話でした。私は、日本の伝統宗教である神社神道を例に挙げ、禊によって諸々の汚れを洗い清めるとか、お払いによって諸々の崇りを払い去るという儀式を持ち、また塵一つ無く掃き清められた静かな美しい神殿や境内を持っているけれども、確たる神学を持たなかったために、元々神社神道にはなかった種々な思想、イデオロギーが次々とヤドカリのように人リ込み、神道本来の姿がゆがめられてしまった歴史がある。国家神道などもその一例ではないか。それと同様、聖公会もきちんとした神学を持っていなければ、キリスト教とは異なる思想、あるいは見たところキリスト教のようでもキリスト教とは相入れない思想が、他の七つの悪霊を連れて入り住み、教会としての内実を失った、キリスト不在の、見せかけだけの教会になってしまうのではないか。そのような話をした記憶があります。

東京から来たその青年は、私の演説を静かに聞いていましたが、「先生、教会が神学を失えば教会で無くなってしまう、というのは本当だと思います。でも、先生、教会が教会としての生活を失うとすれば、もっと教会でなくなってしまうのでないでしょうか」と言ったのです。ウーン、おぬし、若いながらなかなかやるではないか、と、内心思いました。その青年こそ、誰あろう、植田仁太郎当時執事だったのです。教会が教会であるためには、神学が神学に終わることなく、生活の中に具体的に実践されるべきことを、彼は私に教えてくれたのでした。旧約聖書を背景として主イエスは、預言者・祭司・王という三つの役割を身に帯び、且つこれを完成・成就なさったとは、古典的な聖書神学の教えるところですが、主教の勤めも、まず第一にキリスト教の正しい信仰を擁護することであり、そのために新主教は預言者として常に神のみ言葉に耳を傾け、またそのみ言葉を人々に述べ伝え、またそれが生活の中で実践されるよう励ましてくれるであリましよう。

同じころ、新教出版社の月刊雑誌「福音と世界」に掲載された日キ教団の牧師さんの文章を読んで、また大きな学びをさせられました。その一節を一字一句正確に記憶している訳ではありませんが、大体次のような内容だったと思います。ある人が教会を批判して、わたしにこう言いました、「教会という所は、お祈りぱかりしていて、何もしていないじゃないですか」と。この批判は私の心にグサッときました。しかし、もっとグサッと来たのは、その批判を耳にした人が、次のような疑問を発した時でした、「教会はお祈リぱかりしていてと言う批判ですが、それよりも先生、教会はその人が言うように、本当に、お祈りしているのでしょうか」と。この疑問、この批判は、私の心に更に更に深くグサッと突き刺さって来たのでした。

と、大体こういう内容だったと思います。つまり、教会は礼拝ばかリしていて、福音宣教の実践が欠けているという、この第一の批判も、言い訳のできない手厳しい批判であるが、それよりもまず、元々、教会の中で、本当に、心のこもった祈りが神様に向かって捧げられているのか、という第二の批判は、更に手厳しい、謂わばもっと教会の内面に迫る批判であるように思った、という訳ですが、これは他人事ではない。私自身に向かって、場合によっては日本聖公会全体に向かって投げかけられた批判でもあるように思われたのでした。

いま、私たちは立派な祈祷書を持っています。また、遠からず、聖公会らしい品格を失うことなく、且つ又神学的にも確かな、新しい聖歌集も与えられようとしています。しかし、本当に心から祈っているのですか、本当に心から歌っているのですか、と問われると、私などは少からず反省せざるを得ません。私はどちらかと言えば形式に重きを置く方だと自分では思っていますが、過きたる形式主義となると如何なものか。過きたる礼拝主義、過きたるサクラメンタリズム、過きたる恩寵主義に、或いは単なるヒューマニズムに甘えているところがあるのではないか、と、反省せざるを得ないのです。先程ご紹介した「福音と世界」に載せられた牧師さんのお話ではありませんが、われわれに必要なのは、祈祷書に定められている礼拝諸式を形式的に上手にこなすことではなく、あるいは、聖歌の新しい言語表現や、新しいリズムやメロディに酔い痴れることではなく、心を開いてイエスの息吹を受け、心の奥底から「アバ父よ」と呼び掛け、また人々を神のみ前へと導く祈リなのではないか、と思うのであリます。主教職の第二の勤めである祭司の勤めを、新主教は誰にもまして担って行かれることでありましょう。

もう一つ、随分昔に読んだ本なので、著者の名前も、本の名前も忘れましたが、今なお心に残っている言葉があります。それは「罪による一致は簡単であるが、聖霊による一致は難しい」という言葉です。罪による一致とは何か。それは、人間は不平不満があると驚くほど簡単に一致するということでもあリましょうし、あるいはまた権威を与えられた者が、簡単に権威(auctoritas)を権力(imperium)に変えて、人々を力ずくでまとめようとしたり、真面目な議論を恐れて安易な妥協的な一致を試みたリすることでもあリましょう。それに較べて、聖パウロが熱望した「聖霊の賜う一致」(エペ四・三)を守ることはなかなか難しいことだと、言うのであります。

聖公会の管区・教区・教会の組織を考える場合、我々は聖パウロのあの有名な「キリストの体としての教会」の譬えを常にイメージします。そのイメージするところは、言うまでもなく、生きたキリストの生きた体であって、てんでばらぱらに勝手に動く体なのではない、ましてや死んだ体なのではない。体の各部分がお互いの存在と働きを認め合い、尊重し合い、助け合い、時には自らを犠牲にしてまでも、一致に向かって生きまた働く姿を描きだしています。教区にあっては主教は一致の要であり、またその実現のために仕える僕となります。それが主教職の第三の勤めである王の姿であります。

このように、キリストの体としての教会を常にイメージしていることは、大変結構なことですが、しかし外見的に整ったキリストの体をイメージし過ぎて、教理的に、礼拝的に、組織的に、或いは宣教牧会の活動の上で、伝統にこだわり過ぎたり、目に見える秩序だけが尊重されたり、またそれとは逆に、独善的な安易な進歩主義に心を奪われることがあります。そのいずれの場合においても、人間的な失敗や挫折に正直に謙虚に向き合うことをせず、結果的に、肝心要の聖霊のお働きになる余地がないということに若しなるとするならば、組織体としてのキリストの体も分裂するか硬直するほかなく、また、運動体としてのキリストの体もその機能を果たせない物になってしまうであリましょう。ここでも必要なことは、初めの使徒たちと同じように、主イエスの息吹を受けること、聖霊の激しい風に揺り動かされ、聖霊の火によって燃やされることであります。そのような観点から、東西両教会の再一致に向けての話合いの中で、ニケヤ信経から「フィリオケ条項」を外す、外さない、という手続き上の論議の前に、東方教会の三位一体論、ことに聖霊論からもっと学ぶべきことがあるのではないかという西方教会の学者の声にも、耳を傾けて見る必要がありましょう。また、聖パウロが、教会を「キリストの体」に楡えた時、同時にまたそれが「聖霊の賜う一致」であることを念頭に置いていただろうことを、我々はしばしば思い起こすべきであリます。

今日、東京教区に新しい主教が与えられ、新しい一致へ向けての新しい一歩が踏み出されます。教理の面でも、組織の面でも、礼拝の面でも、宣教牧会の面でも一層神様のみ心にかなう、活き活きとしたもとのなり得ますよう、改めて主イエスの息吹きを受ける日であります。もちろん、我々が改めて主イエスの息吹を受けるということは、あるいは我々に新しい困惑、ためらい、恐れを引き起こすことになるかも知れません。というのも、我々一人一人が、そしてまた東京教区が、主イエスの息吹の赴くところへ、使徒言行録的に言えば「地の果てにまで」、改めてさし遣わされることになるからです。「地の果て」と言えば「北の果てなる氷の山の」との聖歌が示すようにかつては地理的な距離を意味しました。しかし、主イエスがお弟子たちに「沖へ漕ぎ出して網を下ろしなさい」「深みへ乗り出し、網を下ろして漁れ」と命じられたお言葉を考えると、主イエスの言われる「地の果て」とは、単に地理的な距離だけではなく、「人の心の深み」「人の心の一番深いところ」を差しておられたのでありましょう。その意味では、心の底で言葉にならないうめきをもって主を待ち望んでいる方が、我々のすぐ身近におられるかも知れない。我々の同労者の中に、信徒・求道者の中に、或いは我々の友人・家族の中にいるかも知れない。その心の一番奥深い所へ届くように福音を述べ伝えるということは、なんと恐ろしい使命でしょうか。それは、最初の使徒たちが主イエスによって遣わされた時の恐れと同じ恐れであります。しかしまた、主イエスは彼らに言われました「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と。最初の使徒たちへの主イエスのこの御約東は、正に今日の私たちに対する御約束であります。主イエスの息吹、聖霊の御導きを豊かに受けて、新しい一歩を踏み出すことのできるお恵を感謝いたしましょう。(イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに生きを吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい…」。)