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教会委員合同礼拝・祝福式 説教

  Real voice

2003年1月25日(土)
聖アンデレ主教座聖堂
主教 植田仁太郎


詩編

第62編 1節 わたしは静かに神を待つ、わたしの救いは神から来る
    5節 わたしは静かに神を待つ、わたしの希望は神のうちにある

ホセア書 第6章 1節−2節 さあ、我々は主のもとに帰ろう。
主は我々を引き裂かれたが、いやし
我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし
三日目に、立ち上がらせてくださる。

テモテT 第4章 10節 わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。


今日は、この教会委員の合同礼拝と祝福式にご参加下さいまして、本当にありがとうございます。数年前までは、教区全体で新年礼拝を致しまして、お互いに新年を祝い、決意を新たにする機会としておりました。私が主教の職に任じられましてからもうじき二年になりますが、過ぐる一、二年は残念ながら教区全体で新年を祝うという気持にはとてもなれなかったということは、皆様も恐らく同じお気持だっただろうと思います。

折角、そういう教区会以外に教区の皆さまに集まっていただく機会があったのに、全然それを無くしてしまう、というのも残念に思い、何かの形でそういう機会を設けたい、と思いましたのが、今日の礼拝を行うことにした第一の理由です。もうひとつ理由がございます。私が主教の職を与えられ、各教会を巡回している中で、各教会の教会委員さんとお会いしお話しするたびに、教会委員としてみなさんから選ばれている方々が、教会にとってどんなに大切な働きをして下さっているか、そして労多くして報い少ないお仕事に、何と多くの方々が黙々と精を出して下さっているかに、改めて大変心を打たれました。

ここの教区事務所にいつも出入りしている者たちが、特に主教は、教区会とか常置委員とか、教区代議員とか○○委員会とかの働きによって教区が動いているかのようにとかく錯覚し勝ちですが、実は、そうではない、各教会で信徒と聖職の間に立って苦労してくださっている教会委員の務めを果たしていて下さる方があって、初めて、教会が働き、教区が働いているんだということを、もっとはっきりと認識しなければならない、この方々とともに祈り、お互いに励まし合わなければならないと思いましたのが、今日のこの礼拝を企画致しました第二の理由です。

さて、今日の礼拝は、私も、ここに連なって下さっている同僚聖職も、そして皆さんも、神さまから与えられている務めに何よりも謙虚であらねばならないというつもりで、ともに嘆願をささげるというのが後半になっていきます。そして、前半、今まで読み、唱えてきました聖書と詩編のテーマとなっているのは、「希望」です。

▽詩編62編作者の希望

最初に唱えました詩編第62編は「わたしは静かに神を待つ」ということばで始ります。

これは、この二年間私の心の奥底にあった気持でもあります。世の中一般からも、教会からも、あまりいいニュースは聞こえてこない。時にはムッとしたくなるようなこともある。私が主教という恐れ多い務めに任じられたのは、こんなことをするためだったのだろうか。人々は、教会の方々も、その他の友人達も、こんなことを期待していたのだろうか。神さまは、私に何をしろ、と仰っているのだろうか。神さまは私たちに何をしろと仰っているのだろうか。あの人はあゝ言い、この人はこう言う、そう言う人もまた、どうするのが一番良いのかわからず苦しんでいる。誰もアッと驚くような解決、誰もみんなが納得するような解決を与えることができない。

「わたしは静かに神を待つ」。じたばたするな!「わたしは静かに神を待つ」。しかもこの言葉は5節にも、もう一度出てきます。そしてこの詩編の作者は、ホッとしたように思い出します。「わたしの希望は神のうちにある」。

▽ホセアの悲鳴と希望

次に私たちは、第一日課でホセア書を読みました。冒頭は強烈です。「主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」。

私たちに振りかかった例の経理事件は、まさに、私たちを引き裂き、私たちを打ちのめしました。だれが悪い、だれが責任があると言っても始まりません。それが分かった時点で色んな形で、私たちみんなが引き裂かれ、打ちのめされました。

ご存知のように、ホセアという預言者は、神さまから、身持ちの悪い女性と結婚せよと命じられて、非常に屈折した私生活を引き受けざるを得なかった特異な預言者です。そして、妻の子ではあっても自分の子ではない子を次々と家族として受け入れなければならなくなります。

妻の不倫によって出来た子に、恐ろしい名前がつけられます。「ロ・ルハマ、憐れまれることのない者」とか、「ロ・アンミ、わが民でない者」とか、空恐ろしい名前です。そういう複雑な家庭をかかえ、悩みながら、ホセアは、気付きます。この自分の状況は、神さまが神さまとイスラエルの民の関係が、このようにねじくれてしまっているよ、ということを身をもって知らせようとなさったのだ、と気付きます。そして、イスラエル、エフライム、ユダの人々に警告し預言をします。6章のこの箇所は、神から悔改めを迫られたイスラエル、エフライム、ユダの人々が悲鳴をあげているところです。「神さまは、我々を引き裂いたがいやし、打ちのめされたが傷を包んでくださる方に違いない」とすがっているところです。そして、「主は曙の光のように必ず現れ…我々を訪ねてくださる」という希望を表明します。

それはホセア自身の悲惨な家庭生活の中からの悲鳴と希望でもあったと思います。希望というのは、何もない所に空しくあるものではありません。失われた信頼の中から、打ちひしがれている時に、その中から信頼を回復しつつ生まれるものが希望です。

▽組織化時代の教会

そしてその次に、私たちは、第二日課でテモテへの手紙を読みました。テモテは、偉大なパウロの弟子として使徒言行録にも、パウロの手紙にもしばしば登場します。テモテという人の名前は、パウロとともに初代教会の人々の間で、かなり良く知れ渡っていたようです。

このテモテへの手紙は、あたかも偉大なパウロが、その弟子に書いているような格好にして、つまり、パウロの権威を借りて、誰かが書いたもので、パウロ自身が書いたものではないし、テモテに対して書いたものでもないことははっきりしています。手紙の差出人とあて名人は、どうでも良いことです。では、あまり重要でないか、というと、そうでもありません。パウロよりずっと後で書かれたようですから、本物のパウロの手紙とは書かれた時代背景や、書かれた意図が違います。つまり、パウロの時代には、まだイエスのことを実際に知っていたり、またイエスのことを記憶したりしていた第一世代のクリスチャンが沢山居りましたが、もうこの手紙の書かれた頃、紀元後百年位ですが、第一世代の人々はとうにいなくなって、第三、第四世代のクリスチャン達の時代で、教会がいよいよ組織化される時代になっています。

つまり組織としての教会を成立させてゆく上でのマニュアルだといって良いでしょう。ですから、この文章は、聖職にも信徒にも、教会という組織を預る現代の私たちにとっても、そのまま、良くわかります。そして、「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです」と言っています。

教会の歴史のどの時代にも、良心的な人々は、労苦し、奮闘したのでしょうし、この手紙を書いた人も、また読んだ人々も、教会の実状としては今の私たちとそう大差のない状況にあっただろうと推測されます。そして、「労苦し奮闘できる」のは、「生ける神に希望を置いている」からだと理解します。

この手紙を書き、そしてこの手紙を読んだ人々は、実は、教会の運営に責任を持つ人々の「マニュアル」であるこの手紙だけを頼りにしたのではなく、イエスの教えとなさったことを記した福音書のどれかひとつを、当然知っていたと思われます。福音書に伝えられるイエスの姿・十字架・復活に従いつつ、もう一方でこの手紙を教会運営のマニュアルとしました。イエスのなさったこと、教えたことを心に留めながら、希望を神においているから、私たちは労苦し奮闘できるのだと言っています。これも私たちと同じです。

今日は敢えて福音書を読みませんでした。それは、私たちは、福音書のある箇所だけに注目するのではなくて、福音書に記されたイエスの教えたことなさったこと全体を心に留めながら、希望というものを考えたかったからです。私たちが希望を神に託することができるのも、私たちが静かに神を待つことができるのも、そして、私たちが神に悲鳴を挙げつつ信頼できるのも、イエスのなさったこと、イエスの教えたことがあるからです。

▽ひとつの奇跡

イエスのなさったことの多くは、人々に奇跡と映りました。イエスのなさったことの多くは、後の世の人々に奇跡として記憶されました。悪霊が追い出され、病人が癒され、水がブドウ酒に変り、嵐が静まり、一晩中とれなかった魚がイエスの指示で舟一杯とれたのも奇跡として映りました。私たちは、奇跡はイエスとイエスが生きた時代の人々にだけ起ったのであって、現代のような不信仰の時代には滅多に起こらないだろうと考えています。

しかし私には、教会の姿そのものが、やせても枯れても、ひとつの奇跡のように思えてなりません。

東京教区が、三五の会衆を擁し、年間三億四千万円もの予算を計上し、さらにその上に、一千五百万円もの献金を教会の外の働きに献げ、また各教会が直接用いている予算を勘定に入れれば、さらに何億円かを献げて下さっているのは、ほとんど奇跡のように思えてなりません。私を初め、つたない聖職団の力を考えるとなおさらです。お金のことばかり申しましたが、それだけでなく、おカネや人が居ないと嘆きながら、カパティランを支え、ホームレスの人々への働きを支え、ぶどうのいえを支え―、その他多くの働きを側面から支え、どれだけ多くの人々の支えになっているかを考えると、これまた奇跡のように思えてきます。

また皆さんとともに、もっと教会に生涯を捧げる聖職となる人々が増えて欲しいと願っているうちに、この一年で六人もの方々が、将来聖職となりたいのだけれど…と志願して下さいました。これまた奇跡のように思います。

イエスは興味本位や、自分の利益や自分の力を誇示するために奇跡のようなわざを行ったのではありません。そこには、必ず、労苦し、奮闘し、心配する当事者が居ります。そして、そこにイエスが居合わせました。

私は皆さんとともに、ずっとこの東京で起っている、そしてこれからも起るに違いない、奇跡の当事者でありたいと願っております。

詩編の作者が静かに神を待ち、ホセアが神に悲鳴をあげ、初代教会の人々が労苦し奮闘したこと、すべてが私たちに当てはまります。その中で、みんな神に希望を見出しました。そして、その希望はイエスのなさった奇跡的なわざで、むなしい希望でないことが裏付けられました。

今日のこの機会に、皆さんとともに、神さまの力の奇跡の当事者としてあり続けたいという、私の願いと祈りを分ち合っていただければうれしく存じます。