第參編 日本傳道の紀元(上)

第參編 日本傳道の紀元(上)

一、開國の曙光

 回顧(くわいこ)すれば天文年間(てんもんねんかん)、葡萄牙(ポルトガル)の商船(しやうせん)が初(はじめ)て九州(しう)に來(き)てから、我國(わがくに)と外國(ぐわいこく)との通交(つうかう)の氣運(きうん)、漸(やうや)く此時(このとき)より開(ひら)け凡(およ)そ九十餘年間(よねんかん)貿易(ばうえき)の行(おこな)はるゝと倶(とも)に、新智識(しんち しき)を海外(かいぐわい)より移植(いしよく)し、國運(こくうん)の隆興(りゆうこう)を助(たす)けたることは僅少(すくな)くなかつた。基督敎(きりすとけう)また葡萄牙(ポルトガル)西班牙(スペイン)宣敎師(せんけうし)により、國内至(こくないいた)る所(ところ)に布敎(ふけう)せられ、傳道(でんだう)は駸々(しゆんしゆん)として其(その)歩(ほ)を進(すゝ)め、其(その)勢力(せいりよく)は頗(すこぶ)る熾盛(さかん)なるに至(いた)つたが、惜(おしひ)かな當時(たうじ)舊敎(きうけう)宣敎師(せんけうし)の傳道(でんだう)其(その)宜(よろしき)を得(え)ずして、國土侵略(こくどしんりやく)の嫌疑(けんぎ)を被(かうむ)りたると、自國(じこく)に於(おい)て西班牙(スペイン)と鬪(たゝか)ひ、印度(いんど)及(およ)び南洋(なんやう)に於(おい)て貿易(ばうえき)を葡(ふ)、西(せい)と競(きそ)ひし荷蘭人(オランダじん)が、新敎(しんけう)を奉(ほう)ずるを以(もつ)て、羅馬(ろうま)敎徒(けうと)と相善(あひよ)からざりしかば我(わ)が政府(せいふ)に羅馬(ろうま)敎徒(けうと)の畏(おそ)るべき謀計(ぼうけい)ありと告(つ)げたるに由(よ)り、秀吉(ひでよし)家康(いへやす)の忌(い)む所(ところ)となり、基督敎(きりすとけう)は嚴禁(げんきん)せらるゝに至(いた)つた。尋(つひ)で德川幕府(とくがわばくふ)は、寬永(くわんえい)鎖國令(さこくれい)を以(もつ)て基督敎(きりすとけう)を嚴禁(げんきん)し、一切(いつさい)の外交(ぐわいかう)と貿易(ばうえき)を禁(きん)ずるに至(いた)り、爾來(じらい)之(これ)を墨守(ぼくしゆ)して宇内(うだい)大勢(たいせい)の外(ほか)に立(た)つこと、幾(ほとん)と貳百有餘年(いうよねん)であつた。然(しかし)ながら氣運(きうん)は我國(わがくに)をして極東(きよくとう)に偏安(へんあん)して、別天地(べつてんち)を爲(な)すを許(ゆる)さず、茲(こゝ)に嘉永年間(かえいねんかん)米使(べいし)の來航(らいかう)に、我國(わがくに)は排外鎖國(はいぐわいさこく)の長夜(ちやうや)の眠(ねむり)醒(さ)めて、新文明(しんぶんめい)に門戸(もんこ)を啓(ひら)くに至(いた)つた。米使(べいし)の來航(らいかう)は、實(じつ)に我國(わがくに)歴史(れきし)轉回(てんくわい)の端(たん)を啓(ひら)き舊日本(きゆうにほん)と新日本(しんにほん)とを分(わか)つ區劃線(くくわくせん)を爲(な)し、而(しか)して又(ま)た我(わ)が日出帝國(ひのでていこく)に新(あたら)しき福音(ふくゐん)の光明(ひかり)輝(かゞや)き出(いづ)る薄明(しのゝめ)とはなつた。さればこゝに日本傳道(にほんでんだう)の紀元(きげん)を敍述(のぶ)るには、先(ま)づ開鎖(かいさ)當時(たうじ)の顚末(てんまつ)を略述(りやくじつ)せねばならぬ。

二、ペルリの來航  

 米國使節(べいこくしせつ)ペルリが、軍艦(ぐんかん)四艘(さう)を率(ひき)ひ、相州(さうしう)浦賀(うらが)に渡來(とらい)したるは、嘉永(かえい)六年(ねん)六月(ぐわつ)三日(か)であつた。是(これ)より先(さき)、幕府(ばくふ)は近年(きんねん)追々(おひおひ)と外國船(ぐわいこくせん)が東海(とうかい)に出沒(しゆつぼつ)せるを見(み)て、容易(ようゐ)ならずと思(おも)ひ浦賀(うらが)は江戸灣(えどわん)の咽喉(いんこう)たり、下田(しもだ)は東海(とうかい)の形勢(けいせい)たるを以(もつ)て、殊(こと)に此(この)要地(えうち)の警衞(けいえい)を心掛(こゝろが)け、下田(しもだ)には勤番(きんばん)を置(お)き、浦賀(うらが)には奉行(ぶきやう)を在勤(ざいきん)せしめ、井伊(ゐい)掃部頭(かもんのかみ)其他(そのた)の諸大名(しよだいみやう)に海岸(かいがん)の警備(けいび)を命(めい)じたるは前年(ぜんねん)の事(こと)であつた。されば當時幕府(たうじばくふ)の周章(しうしやう)狼狽(らうばい)一方(かた)ならず、上(うへ)を下(した)へと沸(わ)くが如(ごと)き有樣(ありさま)であつた。扨(さ)て幕府(ばくふ)は、林(はやし)大學頭(だいがくのかみ)、浦賀(うらが)奉行(ぶぎやう)戸田(とだ)伊豆守(いづのかみ)井戸(ゐと)石見守(いはみのかみ)に命(めい)じて、久里濱(くりはま)に於(おい)て米使(べいし)ペルリに應接(おうせつ)し國書(こくしよ)を請取(うけと)らしめた。
ペルリは國書(こくしよ)を交付(かうふ)し、來春(らいしゆん)を以(もつ)て返答(へんたふ)を聞(き)く爲(ため)に再渡(さいと)すべしと告(つ)げ退帆(たいはん)した。幕閣(ばくかく)は國書(こくしよ)を翻譯(ほんやく)せしめたるに、鎖國(さこく)の不利(ふり)を説(と)き、米國(べいこく)と修交(しうかう)の訂約(ていやく)を勸告(くわんこく)するものであつた。乃(すなは)ち其(その)譯文(やくぶん)を諸大名(しよだいみやう)及(およ)び文武官(ぶんぶくわん)に示(しめ)し、且(か)つ諮問状(しもんじやう)を發(はつ)して、米國(べいこく)の要請(えうせい)する所(ところ)を許容(きよよう)すべきや否(いな)や、各(おのおの)意見(いけん)を提出(ていしゆつ)せしめ、以(もつ)て和戰(わせん)の決(けつ)を諮問(しもん)した。茲(こゝ)に於(おい)て、諸侯(しよこう)及(および)志士(しゝ)の意見(いけん)を献(けん)するもの數(すう)百通(つう)に至(いた)りしが、和戰(わせん)開國(かいこく)の討議(たふぎ)を爲(な)せるものは寥々(れうれう)一二に過(す)ぎず、其他(そのた)は皆(みな)擧(こぞつ)て開國(かいこく)を不可(ふか)なりとし、幕府(ばくふ)は宜(よろ)しく米國(べいこく)の要請(えうせい)を峻拒(しゆんきよ)せらるべし、渠(かれ)もし之(これ)を聽(き)かずして我(われ)に無禮(ぶれい)を加(くは)ふることもあらば、斷然(だんぜん)砲火(はうくわ)を以(もつ)て掃攘(さうじやう)すべしと云(い)ふにあり、滔々(たうたう)皆(みな)拒絶(きよぜつ)攘斥(じやうせき)砲撃(はうげき)開戰(かいせん)を主張(しゆちやう)した。幕府(ばくふ)も亦(また)奈何(いかん)ともすること能(あた)はざれば、策(さく)の出(いづ)る所(ところ)を知(し)らなかつた。

三、神奈川條約

 既(すて)にして翌(よく)安政元年(あんせいぐわんねん)正月(しやうぐわつ)十一日(にち)、ペルリは堅艦(けんかん)八艘(さう)を率(ひき)ひ、舳艫(ぢくろ)相銜(あひふく)んで浦賀(うらが)に入(い)り、更(さら)に神奈川灣(かながはわん)に向(むか)つて進(すゝ)んだ。幕府(ばくふ)驚愕(きやうがく)なす所(ところ)を知(し)らず、匇惶(そうくわう)林(はやし)大學頭(だいがくのかみ)、井戸(ゐと)對馬守(つしまのかみ)を神奈川(かながは)に派遣(はけん)し、全權(ぜんけん)の名(な)を以(もつ)てペルリに會見(くわいけん)せしめ、到底(たうてい)その要請(えうせい)を容(ゐ)れざれば、開戰(かいせん)の避(さ)く可(べ)からざるを覺(さと)り、祕密(ひみつ)の訓令(くんれい)を受(う)けて條約(でうやく)を議定(ぎてい)し、安政元年(あんせいぐわんねん)三月(ぐわつ)三日(千八百五十四年三月卅一日)調印(てういん)を了(れう)した。是(こ)れ所謂(いはゆる)神奈川(かながは)條約(でうやく)にして、我國(わがくに)に於(おい)て外國(ぐわいこく)と條約(でうやく)を結(むす)べる嚆矢(かうし)である。
此條約(このでうやく)の要點(えうてん)は、
(一)米國船舶(べいこくせんぱく)が何(いづ)れの所(ところ)に漂着(へうちやく)するも之(これ)を救助(きゆうぢよ)し保護(ほご)を與(あた)ふる事(こと)、
(二)米國船舶(べいこくせんぱく)の爲(ため)に下田(しもだ)凾館(はこだて)兩港(りやうかう)を開(ひら)き其(その)寄泊(きはく)を許(ゆる)す事(こと)、
(三)此(この)兩港(りやうかう)に於(おい)ては船中(せんちゆう)必要(ひつえう)の物品(ぶつぴん)を買求(かひもと)むるを許(ゆる)す事(こと)、
(四)米國(べいこく)に於(おい)て必要(ひつえう)なりとする時(とき)は下田(しもだ)に領事(りやうじ)を駐在(ちゆうざい)せしむる事(こと)
であつた。
斯(かく)てペルリは凾館(はこだて)を視察(しさつ)し、尋(つい)で下田(しもだ)に來(きた)り、我(わが)全權(ぜんけん)に會(くわい)し神奈川(かながは)條約(でうやく)附録(ふろく)、下田(しもだ)凾館(はこだて)兩港(りやうかう)に於(お)ける米人(べいじん)遊歩規定(いうほきてい)、并(ならび)に賣買(ばいばい)の細則(さいそく)を議定(ぎてい)した。是(こ)れ下田(しもだ)條約(でうやく)附録(ふろく)である。

四、タウセント、ハリス渡來  

 神奈川條約(かながはでうやく)が締結(ていけつ)された翌年(よくねん)、即(すなは)ち安政(あんせい)二年(ねん)(千八百五十五年十一月)米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)傳道(でんだう)會社(くわいしや)は、新(あらた)に二人(にん)の少壯有爲(せうさういうゐ)の宣敎師(せんけうし)を支那(しな)に派遣(はけん)した。是(こ)れリギンス、ウイリヤムス兩師(りやうし)である。兩師(りやうし)は翌年(よくねん)(千八百五十六年(ねん))六月(ぐわつ)二十八日(にち)上海(しやんはい)に來着(らいちやく)せられた。同年(どうねん)(安政(あんせい)三年(ねん))七月(ぐわつ)十九日(にち)に、我國(わがくに)には米國(べいこく)總領事(そうりやうじ)タウセント、ハリス渡來(とらい)し、條約(でうやく)に據(よ)り下田(しもだ)に在留(ざいりう)すべき旨(むね)を幕府(ばくふ)に告知(こくち)した。當時(たうじ)拒絶(きよぜつ)攘斥(ぢやうせき)砲撃(はうげき)開戰(かいせん)の議論頻(ぎろんしき)りに上下(じやうか)の間(あいだ)に行(おこな)はれ、幕府(ばくふ)はこれを鎭壓(ちんあつ)するに苦(くるし)みし際(さい)なれば、亞米利加(あめりか)官吏(くわんり)の下田(しもだ)に在留(ざいりう)するは、幕府(ばくふ)の太(はなは)だ喜(よろこ)ばざる所(ところ)であつた。是(これ)に由(よつ)て下田奉行(しもだぶぎやう)をして退去(たいきよ)を談判(だんぱん)せしめたれど、事行(ことおこな)はる可(べ)くもあらず、ハリスは總領事館(そうりやうじくわん)を下田(しもだ)に設(まう)け、下田奉行(しもだぶぎやう)井上(ゐのうへ)信濃野守(しなのゝかみ)、中村(なかむら)出羽守(ではのかみ)に迫(せま)り、安政(あんせい)四年(ねん)五月(ぐわつ)二十六日(にち)を以(もつ)て、規定書(きていしよ)八箇條(かでう)に調印(てういん)せしめた。而(しか)して、ハリスは總領事(そうりやうじ)として在留(ざいりう)するのみならず、米國(べいこく)大統領(だいとうりやう)より日本條約(にほんでうやく)を改訂(かいてい)し、和親通商(わしんつうしやう)の條約(でうやく)を爲(な)し、之(これ)を議定調印(ぎていてういん)するの全權(ぜんけん)を授(さづ)けられ、國書(こくしよ)を携帶(けいたい)して渡來(とらい)したるに付(つ)き、江戸(えど)に出(い)でゝ將軍(しやうぐん)に謁見(えつけん)し、且(かつ)閣老(かくらう)に會見(くわいけん)すべしと迫(せま)つた、幕府(ばくふ)は之(これ)を謝絶(しやぜつ)せんと試(こゝろ)み、百方(ぱう)其力(そのちから)を用(もち)ひたれど、ハリスは斷然(だんぜん)これを聽(き)かなかつた。然(しか)るに此時(このとき)に當(あた)り、英國(えいこく)は頻(しき)りに淸國(しんこく)を攻破(せめやぶ)り、勝(かち)に乘(じやう)じて十分(ぶん)なる條約(でうやく)を結(むす)び、其(その)餘威(よゐ)を以(もつ)て日本(にほん)に強請(きやうせい)する所(ところ)あるべしと云(い)へる風説(ふうせつ)は大(おほい)に幕閣(ばくかく)の心膽(しんたん)を寒(さむ)からしめ、戰々兢々(せんせんけうけう)たる折柄(おりから)なりければ、ハリスは此(この)機會(きくわい)失(うしな)ふべからずとや思(おも)ひけん、東洋(とうやう)の形情(けいじやう)を論(ろん)じ、米國(べいこく)の國是(こくぜ)を敍(じよ)し、切(せつ)に英國(えいこく)全權(ぜんけん)の來(きた)らざるに先(さき)だちて、米國(べいこく)と條約(でうやく)を結(むす)ぶは、日本(にほん)の國安(こくあん)の爲(ため)に急務(きふむ)なりと懇切(こんせつ)したので、幕閣(ばくかく)は群議(ぐんぎ)を排(はひ)して、米國(べいこく)官吏(くわんり)江戸參府(えどさんぷ)、同(どう)登城拜謁(とじやうはひえつ)、閣老(かくらう)會見(くわいけん)應接(おうせつ)を承諾(しようだく)するに至(いた)つた。

五、日米條約議定

 安政(あんせい)四年(ねん)十月(ぐわつ)二十一日(にち)、ハリスは將軍家(しやうぐんけ)に謁見(えつけん)し大統領(だいたうりやう)の國書(こくしよ)を奉呈(ほうてい)し、同(どう)二十六日(にち)閣老(かくらう)堀田(ほつた)備中守(びつちゆうのかみ)の邸(やしきに)に至(いた)り、堂々(だうだう)宇内(うだい)の形成(けいせい)を述(の)べ、開國(かいこく)貿易(ばうえき)の利(り)を説(と)き、今日(こんにち)の時勢(じせい)に際(さい)して、日本(にほん)一國(こく)のみ萬國交際(ばんこくかうさい)のほかに孤立(こりつ)しては、國安(こくあん)を維持(ゐぢ)し民福(みんぷく)を進捗(しんせふ)するの望(のぞ)み得(う)べからざるを論(ろん)じ、斷然(だんぜん)米國(べいこく)の勸誘(くわんいう)に應(おう)じて、國是(こくぜ)を定(さだ)むるの長計(ちやうけい)たるを、滔々(たうたう)懸河(けんが)の辯(べん)を揮(ふる)つて説示(せつし)し、演説(えんぜつ)凡(およ)そ六時間(じかん)に渉(わた)つたといふ。
閣老(かくらう)大(おほひ)に其辯論(そのべんろん)に服(ふく)し、遂(つい)に勇進的(ゆうしんてき)開國主義(かいこくしゆぎ)を持(ぢ)するに至(いた)つた。かくて井上(ゐのうへ)信濃守(しなのゝかみ)岩瀨(いはせ)肥後守(ひごのかみ)を全權(ぜんけん)に命(めい)じ、ハリスが呈出(ていしゆつ)せる條約(でうやく)草案(さうあん)を議定(ぎてい)する事(こと)になり、同年(どうねん)十二月(ぐわつ)二十五日(にち)に至(いた)りて全(まつた)く協議(けふぎ)決了(けつれう)し、今(いま)は最早(もはや)雙方(さうほう)全權(ぜんけん)調印(てういん)署名(しよめい)する計(ばか)りに成(な)つた。其草案(そのさうあん)は翌年(よくねん)に調印(てういん)したる「安政(あんせい)五年(ねん)江戸條約(えどでうやく)」と名(なづ)くるものである。

六、米艦一士官の書信  

 是(これ)より先(さき)ハリスが幕府(ばくふ)と談判(だんぱん)交渉中(かうせふちゆう)に、米國(べいこく)軍艦(ぐんかん)ポーツマウスは我國(わがくに)に渡來(とらい)した。此(この)軍艦(ぐんかん)は千八百五十七年(ねん)(安政(あんせい)四年(ねん))八月(ぐわつ)二十二日(にち)上海(しやんはい)を出發(しゆつぱつ)し、九月(ぐわつ)七日(か)夜(よ)下田(しもだ)に入港(にふかう)し、後(の)ち函館(はこだて)に停泊(ていはく)した。此(この)停泊中(ていはくちう)同艦(どうかん)の一士官(しくわん)は、千八百五十七年(ねん)十月(ぐわつ)三日(か)日附(ひづけ)にて、在(ざい)上海(シヤンハイ)の宣敎師(せんけうし)に書簡(しよかん)を送(おく)り、書中(しよちう)日本傳道(にほんでんだう)の時機(じき)到來(たうらい)せるを報(はう)じ、宣敎師(せんけうし)を派遣(はけん)すべしと訴(うつた)へた。

『敬愛(けいあひ)する足下(そくか)、小官(せうくわん)は香港(ホンコン)に到着(たうちやく)の上(うへ)は、請取(うけと)るべき又(ま)た認(みと)むべき多(おほ)くの書状(しよじやう)有之(これある)べく候(そろ)に就(つ)き當地(たうち)停泊中(ていはくちゆう)の閑暇(かんか)を利用(りよう)し、日本(にほん)よりの短信(たんしん)を足下(そくか)に認(したゝ)め申上候(もをしあげそろ)。我等(われら)は八月(ぐわつ)二十二日(にち)上海(しやんはい)を出航(しゆつかう)し、逆風(ぎやくふう)激浪(げきらう)に進路(しんろ)を妨(さまたげ)られて、下田港(しもだかう)に投錨(たうべう)したるは九月(ぐわつ)七日(か)夜(よ)に候(そろ)。陸地(りくち)に近(ちか)づき候(そろ)に景色(けしき)まことに美(うつく)しく、淸新(せいしん)なる大氣(たいき)は一呼吸毎(こきふごと)に、心神(しんじん)を壯快(さうくわい)ならしむる如(ごと)く感(かん)じ申候(まをしそろ)。投錨(たうべう)するや直(たゞ)ちに海岸(かいがん)より來(きた)れる役人等(やくにんら)により食事(しよくじ)を供(きやう)せられ候(そろ)。彼等(かれら)は至極(しごく)慇懃(いんぎん)にして我等(われら)が願望(ぐわんばう)し得(う)る糧食(れうしよく)に關(くわん)する凡(すべ)ての物(もの)、寧(むし)ろ彼等(かれら)が有(いう)する凡(すべ)ての物(もの)を我等(われら)に供給(きやうきふ)すべく申出候(まをしいでそろ)。彼等(かれら)は我等(われら)が要求(えうきう)する權(けん)あるものは、如何(いか)なる事物(じぶつ)にても拒絶(きよぜつ)せんとする樣子(やうす)は無之候(これなくそろ)。價格(かかく)は我等(われら)の堪能(たんのう)なる總領事(そうりやうじ)ハリス氏の盡力(じんりよく)により、最(もつと)も滿足(まんぞく)なる標準(へうじやん)にて定(さだ)められたれば、魚類(ぎよるゐ)小鳥等(ことりとう)も廉價(れんか)にて得(え)られ候(そろ)。此紳士(このしんし)は自己(じこ)の職務(しよくむ)に深大(しんだい)の興味(きやうみ)を有(いう)し居(お)らるゝは、我等(われら)の喜(よろこ)ぶ所(ところ)に候(そろ)。或(あ)る人々(ひとびと)は此度(このたび)我等(われら)の渡航(とかう)に際(さい)し、彼(かれ)は日本(にほん)を去(さ)るならんと豫期(よき)いたし候(さふら)へ共(ども)、事實(じゞつ)は全(まつた)く反對(はんたい)にして、彼(かれ)は自己(じこ)の使命(しめい)に一向(かう)專念(せんねん)全力(ぜんりよく)を傾注(けいちゆう)し居(お)り、現在(げんざい)に於(おい)ては部分開港(ぶゞんかいかう)に候(さふら)へ共(ども)、結局(けつきよく)日本(にほん)諸港(しよかう)を開放(かいはう)することに成功(せいかう)すべしとの希望(きばう)を懷(いだ)きつゝ、恰(あたか)も母國(ぼこく)より追放(つひはう)の状情(じやうじやう)に在(あ)りながら、尚(な)ほ益々(ますます)奮勵努力(ふんれいどりよく)すべき決心(けつしん)に有之由(これあるよし)に候(そろ)。彼(かれ)が幕吏(ばくり)と會見應接(くわいけんおうせつ)するや、威風嚴然(ゐふうげんぜん)態度沈重(たいどちんぢゆう)にして、禮節作法(れいせつさはふ)を嚴守(げんしゆ)し、一動(どう)一靜(せい)も忽諸(こつしよ)にせざる事(こと)は、慣例(くわんれい)格式(かくしき)禮儀(れいぎ)を墨守(ぼくしゆ)する遉(さすが)の形式家輩(けいしきかはい)の眼(め)には、彼(かれ)の一層(そう)の敬重(けいぢゆう)を加(くは)へたることゝ存候(ぞんじそろ)。彼(かれ)は強固(きやうこ)に確實(かくじ)に努力(どりよく)しつゝあれば、其進行(そのしんかう)は遲々(ちゝ)たりとも、此國(このくに)より全(まつた)く獲得(くわくとく)したるもの僅少(すくな)からざるは、小官(せうくわん)の信(しん)じて疑(うたが)はざる所(ところ)に候(そろ)。彼(かれ)は昨年(さくねん)七月(ぐわつ)、サン、ジヤシントーより上陸(じやうりく)したる以來(いらい)、單身(たんしん)此地(このち)に在留(ざいりう)いたし、爾來(ぢらい)今日(こんにち)まで我(わ)が一軍艦(ぐんかん)も來(きた)りて、彼(かれ)の爲(た)めに其威容(そのゐよう)を示(しめ)し、以(もつ)て故國(ここく)の強堅(きやうけん)なる後援(こうゑん)を保證(ほしよう)せざりしたにも拘(かゝ)はらず、彼(かれ)は其(その)人格的(じんかくてき)感化(かんくわ)に由(よ)つて幕閣(ばくかく)を動(うごか)し、深(ふか)く彼等(かれら)の心理(しんり)に自己(じこ)の威重(ゐぢゆう)を感銘(かんめい)せしめ、彼等(かれら)をして重要(ぢゆうえう)なる讓諾(じやうだく)を爲(な)さしむるに至(いた)り候(そろ)。下田(しもだ)に於(おい)て二人(にん)の幕吏(ばくり)は、特別(とくべつ)なる思慮(しりよ)を以(もつ)て彼(かれ)を待遇(たいぐう)いたし候(そろ)。幕府(ばくふ)は下田(しもだ)の周圍(しゆうゐ)十六哩(まいる)を以(もつ)て、遊歩區域(いうほくいき)と制限(せいげん)したる條約(でうやく)の規定(きてい)を釋(と)きて、彼(かれ)が自由(じいう)行歩(かうほ)の權(けん)を承認(しようにん)いたし候(そろ)。併(しかし)ながら暫(しば)らく區域外(くゐきぐわい)に行歩(かうほ)なきやう要請(えうせい)せられ候(そろ)。彼(かれ)と幕府(ばくふ)との交渉(かうせふ)は進行(しんかう)しつゝあり、此交渉(このかうせふ)に於(おい)て結局(けつきよく)は江戸(えど)に出府(しゆつぷ)し、通商條約(つうしやうでうやく)批准(ひじゆん)に至(いた)るべしとは、彼(かれ)の毫(がう)も疑(うたが)はざる所(ところ)に候(そろ)。近頃(ちかごろ)彼(かれ)が締結(ていけつ)したる重要(ぢゆうえう)なる件々(けんけん)にて、直接(ちよくせつ)宣敎師(せんけうし)の事業(じげふ)に關係(くわんけい)するものに在(あ)つては、米國人民(べいこくじんみん)は、何人(なにびと)なりとも日本(にほん)に來(きた)り、下田(しもだ)函館(はこだて)兩港(りやうかう)に住居(ぢゆうきよ)するを許(ゆる)すとの如(ごと)き、斯(かゝ)る特種(とくしゆ)の件(けん)に候(そろ)。また法律(はふりつ)に違反(ゐはん)したる米國(べいこく)人民(じんみん)は、支那(しな)に於(お)ける外國領事(ぐわいこくりやうじ)の慣例(くわんれい)に從(したが)ひ、總領事(そうりやうじ)若(もし)くは領事(りやうじ)に於(おい)て處分(しよぶん)せられるべしとの事(こと)に候(そろ)。足下(そくか)よ、是(こ)れ我等(われら)の前(まへ)に傳道(でんだう)の門戸(もんこ)開(ひら)かれつゝあるに候(さふら)はずや、此(こ)は是(こ)れ大能者(たいのうしや)の御手(みて)の聖業(みわざ)には候(さふら)はずや。
 此條約(このでうやく)は、千八百五十八年(ねん)七月(ぐわつ)四日(か)より實施(じつし)せらるべき規定(きてい)に候(そろ)。此(この)時期前(じきまへ)に日本(にほん)に來(きた)るは、何人(なにびと)たりとも思慮(しりよ)なき事(こと)に可有之候(これありべくそろ)。此地(このち)の爲(ため)に任定(にんてい)されたる宣敎師(せんけうし)は、多年間(たねんかん)堪(た)へ忍(しの)び俟(ま)ち望(のぞ)む覺悟(かくご)を以(もつ)て來(きた)らざる可(べ)からず。日本(にほん)に來(きた)る宣敎師(せんけうし)は、基督者(きりすとしや)となるは日本人(にほんじん)には死(し)なる事(こと)を記憶(きおく)せざる可(べ)からず。彼(かれ)はまた日本人(にほんじん)の基督敎(きりすとけう)に關(くわん)する思想(しさう)は、彼(か)の十字架(じか)の旗下(きか)に此國(このくに)を占領(せんりやう)せんと謀(はか)りたる西班牙(スペイン)葡萄牙(ホルトガル)ゼジュイット派(は)に於(お)ける苦(にが)き經驗(けいけん)に限(かぎ)られたることを記憶(きおく)せざる可(べ)からず。ゼジュイット派(は)に關(くわん)する傳説(でんせつ)は、毫(がう)も消失(せうしつ)する所(ところ)なく其儘(そのまゝ)世々代々(よゝだいだい)傳(つた)へられて、今(いま)も尚(な)ほ彼等(かれら)の腦裏(のうり)に鮮明(せんめい)に印刻(いんこく)せられ居(を)り候(そろ)。小官等(せうくわんら)が通過(つうくわ)するや、我等(われら)を目(め)がけて泣(な)き叫(さけ)ぶ小兒等(せうにら)は、慥(たし)かに基督者(きりすとしや)は猛獸(もうじう)と見做(みな)せと敎(をし)へられたるものに候(そろ)。宣敎師(せんけうし)は日本(にほん)に於(おい)て住居(ぢゆうきよ)の權(けん)を有(いう)するも、會堂(くわいだう)を設立(せつりつ)し人民(じんみん)に福音(ふくおん)を宣傳(せんでん)することは許(ゆる)されず候(そろ)。彼(かれ)が自己(じこ)の禮拜(れいはい)を爲(な)すは妨(さまた)げず、米國民(べいこくみん)が公禮拜(こうれいはい)の爲(ため)に參集(さんしふ)するは拒(こば)まれず候(そふら)へ共(ども)、公然(こうぜん)人民(じんみん)に基督(きりすと)を宣傳(せんでん)する事(こと)は、目下(もくか)の所(ところ)にては許(ゆる)されず候(そろ)。宣敎師(せんけうし)は此地(このち)に來(きた)り、何等(なんら)別手段(べつしゆだん)を講(かう)せずして、無暗(むやみ)に事業(じげふ)に突進(とつしん)いたさば、恐(おそ)らくは大害(たいがい)を釀(かも)すに至(いた)るべく、唯(たゞ)に彼(かれ)の勞作(らうさく)を水泡(すゐはう)に歸(き)するのみならず、總領事(そうりやうじ)の政策(せいさく)に累(るゐ)を及(およ)ぼすべく候(そろ)(中略)。
 宣敎師(せんけうし)は此地(このち)に於(おい)て英語研究(えいごけんきう)を切望(せつばう)する人民(じんみん)を發見(はつけん)すべく、學校(がくかう)も速(すみや)かに開設(かいせつ)し得(え)らるべく候(そろ)。福音(ふくいん)の眞理(しんり)に關(くわん)しては之(これ)を傳(つた)ふる方法(はうはふ)は、所謂(いはゆる)蛇(へび)の如(ごと)く智(さと)かるべき事(こと)に候(そろ)。兔(と)に角(かく)國語學習(こくごがくしふ)に長日月(ちやうじつげつ)を要(えう)し候(そふら)えば、來(きた)るべき者(もの)は、明年(みやうねん)七月(ぐわつ)四日(か)後(ご)早々渡來(さうさうとらい)あり度候(たくそろ)。支那語(しなご)の素養(そやう)あらば國語(こくご)研究上(けんきうじやう)利(り)する所(ところ)多(おほ)かるべしと存候(ぞんじそろ)。氣候(きこう)は略(ほ)ぼ本國(ほんごく)と同(おな)じく、やゝ温和(おんわ)にして、熱病(ねつびやう)赤痢等(せきりとう)は無之(これなく)、地球上(ちきうじやう)これほど健康(けんかう)に適(てき)する土地(とち)は無(な)かるべしと存候(ぞんじそろ)。(中略)
 小官(せうくわん)は上海(シャンハイ)出立(しゆつたつ)の折(を)りに、斯(か)くも勇(いさ)み進(すゝ)んで通信(つうしん)を認(みと)め得(え)らるゝとは思(おもひ)も懸(か)けざりしが、當地(たうち)に來(きた)りて最(もつと)も心地(こゝち)よき失望致(しつばういた)し申候(まをしそろ)。小生(せうせい)は特別(とくべつ)なる興味(きやうみ)を以(もつ)て日本(にほん)に注目(ちゆうもく)いたし居(を)り候(そろ)。而(しか)して見識(けんしき)と信仰(しんかう)に富(と)める人士(じんし)が、此國(このくに)の傳道(でんだう)の爲(ため)に選定(せんてい)せらるゝことを眞實(しんじつ)に希望致(きばういた)し候(そろ)。福音(ふくおん)は萬國(ばんこく)の民(たみ)に宣傳(のべつた)へられるべしとあり、されば何人(なにびと)も福音(ふくいん)は此國(このくに)に至(いた)らずと辯疏(べんそ)し能(あた)はざる可(べ)く候(そろ)。諸國(しよこく)諸民(しよみん)は福音(ふくいん)宣傳者(せんでんしや)に開(ひら)かれざる可(べ)からず、而(しか)して聖旨(せいし)によしとし給(たま)はゞ、神(かみ)の攝理(せつり)に由(よ)り何(いづ)れの國(くに)何(いづ)れの民(たみ)も、福音(ふくいん)宣傳(せんでん)のために開(ひら)かれ候(そろ)。今(いま)や大能(たいのう)の聖手(みて)は日本(にほん)の上(うへ)に働(はたら)き給(たま)ふ、此國(このくに)の開港(かいかう)は單(たん)に通商貿易(つうしやうばうえき)を許諾(きよだく)したりといふよりは、より以上(いじやう)の意義(いぎ)を有(いう)し候(そろ)。此(これ)は恰(あた)かも間隙(かんげき)に楔子(くさび)を打込(うちこ)む如(ごと)く、福音(ふくいん)の眞理(しんり)を此國(このくに)に打込(うちこ)み得(う)べき端緖(たんちよ)、此處(ここ)にありてふ事(こと)を表示(へうし)するものに候(そろ)。是(これ)ぞ神(かみ)が日本帝國(にほんていこく)の人心(じんしん)を吾人(ごじん)に向(むか)つて啓(ひら)かしめたる所以(ゆゑん)に候(そろ)。(下略)
  千八百五十七年(ねん)十月(ぐわつ)三日(か)日本(にほん)函館(はこだて)
  亞米利加(アメリカ)合衆國(がつしゆうこく)ホーツマウス艦(かん)

一士官(しくわん)』

七、監督ブーン師日本傳道の急務を訴ふ 

 此書状(このしよじやう)に接(せつ)したる上海(シヤンハイ)の宣敎師(せんけうし)は、直(たゞち)に之(これ)を支那(しな)監督(かんとく)ブーン師(し)に送達(そうたつ)したるが、監督(かんとく)は更(さら)に此書(このしよ)を米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)傳道會社(でんだうくわいしや)機關紙(きくわんし)スピリット、オヴ、ミツシヨンスに寄送(きそう)し、同紙上(どうしじやう)に之(これ)を公示(こうし)し、大(おほい)に日本傳道(にほんでんだう)の急務(きふむ)を訴(うつた)へ、公會(こうくわい)の注意(ちうい)を促(うなが)した。

『愛(あい)する兄弟(きやうだい) 予(よ)は本紙上(ほんしじやう)に於(おい)て、我(わ)が海軍(かいぐん)の一士官(しくわん)が日本(にほん)より書(か)かれたる書簡(しよかん)を諸君(しよくん)に寄贈(きそう)せり。此書簡(このしよかん)は上海(シヤンハイ)にある我(わ)が兄弟(きやうだい)の一人(にん)より 予(よ)の許(もと)に送致(そうち)せられたるものなり。書簡(しよかん)其(その)ものは諸君(しよくん)に語(かた)るべければ、予(よ)は唯(た)だ本紙上(ほんしじやう)に於(おい)て、諸君(しよくん)に精讀(せいどく)を請(こ)ふ理由(りいう)に就(つ)き、茲(こゝ)に數言(すうげん)を費(つひや)さんとす。
 予(よ)が、本紙上(ほんしじやう)に於(おい)て諸君(しよくん)の精讀(せいどく)を請(こ)ふ第(だい)一の理由(りいう)は、今(いま)や日本(にほん)に對(たい)し公會(こうくわい)の注意(ちゆうい)を喚起(くわんき)すべき時機(じき)到來(たうらい)せりと思惟(しい)するを以(もつ)てなり。近頃(ちかごろ)締結(ていけつ)せられたる條約(でうやく)に據(よ)り、米國民(べいこくみん)は下田(しもだ)函館(はこだて)兩港(りやうかう)に住居(ぢゆうきよ)する事(こと)を許容(きよよう)せられたり。想(おも)ふに是(これ)より、商人(しやうにん)其他(そのた)のものは彼地(かのち)に群(むらが)り渡航(とこう)すべし、其時(そのとき)に際(さい)し宣敎師(せんけうし)たるものは、此特權(このとくけん)を利用(りよう)すべく米國民(べいこくみん)の最後(さいご)の階級(かいきゆふ)なるべきか、神(かみ)の攝理(せつり)に由(よ)り、此帝國(このていこく)に福音(ふくおん)宣傳(せんでん)の門戸(もんこ)、其前(そのまへ)に開(ひら)かれたる此(こ)の天與(てんよ)の好機(かうき)を、公會(こうくわい)は冷眼(れいがん)看過(かんくわ)せんとするや、惟(おも)ふに諸方面(しよはうめん)に起(おこ)る此書(このしよ)の反響(はんきやう)は、必(かな)らずや我(わ)が外國(ぐわいこく)傳道(でんだう)委員(ゐゐん)をして、直(たゞち)に此國(このくに)に派遣(はけん)すべき、忠實(ちゆうじつ)なる二人物(じんぶつ)を要求(えうきう)せざるを得(え)ざるに至(いた)らしむることは、予(よ)の信(しん)じて疑(うたが)はざる所(ところ)なり。
 予(よ)が本紙上(ほんしじやう)に於(おい)て、此書簡(このしよかん)の精讀(せいどく)を請(こ)ふ第(だい)二の理由(りいう)は、此(これ)は我(わ)が海軍(かいぐん)の名譽(めいよ)なりと思惟(しい)すればなり。斯(かゝ)る場合(ばあひ)に我(わ)が勇敢(ゆうかん)なる軍人(ぐんじん)中(ちゆう)に、斯(かゝ)る人物(じんぶつ)を發見(はつけん)し、而(し)かも彼(かれ)の證言(しようげん)を聽(き)くに至(いた)りしは、予(よ)の欣喜(きんき)に堪(た)へざる所(ところ)なり。彼(かれ)は吾人(ごじん)に語(かた)りて曰(いは)く、「諸國(しよこく)諸民(しよみん)は福音(ふくおん)宣傳者(せんでんしや)に開(ひら)かれざる可(べ)からず、而(しか)して聖旨(せいし)によしとし給(たま)はゞ、神(かみ)の攝理(せつり)に由(よ)り何(いづ)れの國(くに)何(いづ)れの民(たみ)も、福音(ふくおん)宣傳(せんでん)の爲(ため)に開(ひら)かれ候(そろ)。今(いま)や大能(たいのう)の聖手(みて)は日本(にほん)の上(うへ)に働(はたら)き給(たま)ふ、此國(このくに)の開港(かいかう)は單(たん)に通商(つうしやう)貿易(ばうえき)を許諾(きよたく)したりといふよりは、より以上(いじやう)の異議(いぎ)を有(いう)し候(そろ)。此(これ)は恰(あた)かも間隙(かんげき)に楔子(くさび)を打込(うちこ)む如(ごと)く、福音(ふくおん)の眞理(しんり)を此國(このくに)に打込(うちこ)み得(う)べき端緖(たんちよ)、此處(こゝ)にありてふ事(こと)を表示(へうし)するものに候(そろ)。是(これ)ぞ神(かみ)が日本(にほん)帝國(ていこく)の人心(じんしん)を吾人(ごじん)に向(むか)つて啓(ひら)かしめたる所以(ゆゑん)に候(そろ)」と。予(よ)は此書簡(このしよかん)が、日本(にほん)に對(たい)する大(だい)なる注意(ちゆうい)を喚起(くわんき)するに至(いた)るべしとの予(よ)が希望(きばう)の、必(かな)らず徒(むな)しからざるべきを信(しん)ずるなり。

千八百五十八年(ねん)二月(ぐわつ)十三日(にち)

ウィリヤム、ゼー、ブーン』

 如上(じよじやう)の監督(かんとく)ブーン師(し)の紹介(せうかい)を以(もつ)て、無名(むめい)の一士官(しくわん)の興味(きやうみ)ある書簡(しよかん)は、千八百五十八年(ねん)三月(ぐわつ)の米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)傳道(でんだう)會社(くわいしや)機關紙上(きくわんしじやう)に發表(はつぺう)せられたるが、是(これ)ぞ米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)が、日本(にほん)帝國(ていこく)傳道(でんだう)を促(うなが)されたる第(だい)一の警鐘(けいしよう)であつた。

 

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