第四編 日本傳道の紀元(中)

第四編 日本傳道の紀元(中)

一、日米條約調印  

 安政(あんせい)四年(ねん)幕府(ばくふ)の全權(ぜんけん)は、ハリスと條約(でうやく)を議了(ぎれう)したる時(とき)に、此(この)條約(でうやく)は翌(よく)五年(ねん)三月(ぐわつ)五日(いつか)を以(もつ)て、双方(さうはう)全權(ぜんけん)記名調印(きめいてういん)し、批准(ひじゆん)は米國(べいこく)にて交換(かうくわん)すべしと約(やく)したるが、該條約(がいでうやく)の議了(ぎれう)せらるゝや親藩(しんはん)諸侯(しよかう)反對(はんたい)の意見(いけん)を懷(いだ)き、抗議紛々(かうぎふんふん)たりしかば、幕閣(ばくかく)は、所詮之(しょせんこれ)を朝廷(てうてい)に奏上(そうじやう)し、勅許(ちよくきよ)を得(え)て之(これ)を令(れい)するに非(あら)ざるよりは、以(もつ)て全國(ぜんこく)の士民(しみん)をして開國(かいこく)の政(せい)を遵奉(じゆんほう)せしむること能(あた)はずと覺知(かくち)し、安政(あんせい)四年(ねん)十二月(ぐわつ)、目付(めつけ)津田近江守(つだあふみのかみ)林大學頭(はやしだいがくのかみ)を京都(きやうと)に遣(つかは)し、條約勅許(でうやくちよくきよ)を請(こ)はしめた。
然(しか)るに京都(きやうと)に於(おい)ては、勤王論(きんわうろん)の激勵(げきれい)と幕府(ばくふ)の無能(むのう)とに乘(じやう)じて、公卿浪士等(くげらうしら)禁裏(きんり)を圍繞(ゐげう)せる各階級(かくかいきふ)の人(ひと)は、後醍醐帝(ごだいごてい)の昔(むかし)を夢(ゆめ)み武家政權(ぶけせいけん)の回收(くわいしう)に心(こゝろ)を碎(くだ)けることとて、偏(ひとひ)に幕府(ばくふ)を窮境(きゆうきやう)に追(お)はんことを力(つと)めた。こゝを以(もつ)て林津田兩使者(はやしつだりやうししや)は要領(えうりやう)を得(え)ずして歸東(きとう)した。
斯(か)かりしかは堀田閣老(ほつたかくらう)は、川路左衛門尉(かはざさゑもんのすけ)岩瀬肥後守(いはせひごのかみ)其他(そのた)の幕吏(ばくり)を從(したが)へて、安政(あんせい)五年(ねん)二月(ぐわつ)西上(せいじやう)し、公卿(くげ)に會(くわい)し百方陳辯(ぱうちんべん)したれども、三家以下列藩(けいかれつはん)の公議(こうぎ)を採(と)つて具奏(ぐそう)すべきの朝命(てうめい)に接(せつ)し、同(おな)じく其要領(そのえうりやう)を得(え)ずして歸府(きふ)した。然(しか)るにハリスは約(やく)を履(ふん)て三月(ぐわつ)五日(か)に江戸(えど)に來(きた)りたれば、幕閣(ばくかく)は勅許(ちよくきよ)なきが爲(ため)に調印(てういん)の場合(ばあひ)に至(いた)らず、堀田閣老歸府(ほつたかくらうきふ)まで相待(あひま)たれよとて日(ひ)を送(おく)りし中(うち)に、堀田閣老(ほつたかくらう)は四月(ぐわつ)二十日(か)に歸府(きふ)し、ハリスに應接(おうせつ)し、條約調印(でうやくてういん)に付(つ)き人心不成合(じんしんふをりあひ)なれば調印延期(てういんえんき)ありたしと望(のぞ)み、後(の)ち五月(ぐわつ)二日(か)に至(いた)り、閣老連署(かくらうれんしよ)の書(しょ)を以(もつ)て、愈々(いよいよ)七月(ぐわつ)廿七日(にち)には相違(さうゐ)なく調印(てういん)すべしと約(やく)し、期日(きじつ)を延期(えんき)した。
 此間(このあひだ)に條約調印(でうやくてういん)の事(こと)と相關聯(あひくわんれん)して、偶々(たまたま)將軍家繼嗣問題(しやうぐんけけしもんだい)が起(おこ)つた。閣老堀田(かくらうほつた)は、京都(きやうと)に於(おい)て外交(ぐわいかう)の件(けん)に於(おい)て失敗(しつぱい)し了(をは)りたるが、朝議(てうぎ)が外交拒絶(ぐわいかうきよぜつ)に出(い)づるもの決(けつ)して其眞相(そのしんさう)にあらざるを覺(さと)り、こゝに公武(こうぶ)の融和(ゆうわ)を謀(はか)らざれば、遂(つひ)に其如何(そのいか)なる施設(しせつ)をも之(これ)を遂(と)げ得(え)ざるを看破(かんぱ)し、一橋世子(ひとつはしせいし)の朝野共(てうやとも)に之(これ)に衆望(しゆうぼう)を傾(かたむ)くるものあるを見(み)、之(これ)によつて公武(こうぶ)の乖離(くわいり)を防(ふせ)ぎ、諸侯(しよかう)の望(のぞみ)を繋(つな)がんとし、新(あらた)にこの事(こと)の爲(ため)に力(ちから)を盡(つく)すに至(いた)つた。
かくて遂(つひ)に西域(せいゐき)の事(こと)は英俊人望年長(えいしゆんじんばうねんちやう)の三件(げん)を以(もつ)て撰定(せんてい)すべきの内勅(ないちよく)は傳(つた)はり、一橋世子(ひとつはしせいし)の事(こと)は一たび決(けつ)するを得(え)たるも、井伊直弼(ゐいなほすけ)除(おもむ)ろに天下(てんか)の形勢(けいせい)を觀(くわん)じ、一橋世子派(ひとつはしせいしは)の意(い)必(かなら)ずしも其表面(そのへうめん)にあらはるゝ所以(ゆゑん)のみに止(とゞま)らざるを知(し)り、奮然起(ふんぜんたつ)て紀州世子派(きしうせいしは)に力(ちから)を添(そ)へ、安政(あんせい)五年(ねん)四月(ぐわつ)廿五日(にち)入(い)つて大老(たいらう)となるに及(およ)び、堀田等(ほつたら)の計畫(けいくわく)全(まつた)く畫餅(ぐわへい)に歸(き)し、以(もつ)て政界(せいかい)は更(さら)に其形勢(そのけいせい)を一轉歩(てんほ)すべく進(すゝ)んだ。
 この時(とき)に當(あた)り英佛聯合艦隊(えいふつれんがふかんたい)は淸国(しんこく)と戰(たゝか)ひ、北京城下(ぺきんじやうか)に盟(よかひ)をなさしめたる餘威(よゐ)を以(もつ)て、今(いま)や將(まさ)に我國(わがくに)に來(きた)り、ハリスと議定(ぎてい)したる所(ところ)よりも、逈(はる)かに其上(そのうへ)に強請(がうせい)すべしと聞(きこ)えたれば、事急(こときふ)にして再(ふたゝ)び京都(きやうと)と交渉(かうせう)を重(かさ)ぬるの効(かう)なきを見(み)、井伊大老(ゐいたいらう)は決然斷(けつぜんだん)じて曰(いは)く、今日(こんにち)の策(さく)たる我早(われはや)く米國(べいこく)と條約(でうやく)を調印(てういん)して、其條欵(そのでうくわん)に限(かぎ)り以(もつ)て彼(かれ)に應(おう)ずるあるのみ、幕府(ばくふ)の専斷(せんだん)する所(ところ)により、勅許(ちよくきよ)を待(ま)たざる罪(つみ)を得(え)ば、直弼(なほすけ)乃(すなは)ち一身(しん)を以(もつ)て之(これ)に當(あた)らんと、遂(つひ)に大英斷(だいえいだん)を以(もつ)て條約調印(でうやくてういん)を決(けつ)し、下田奉行井上信濃守(しもだぶぎようゐのうへしなののかみ)目付岩瀬肥後守(めつけいはせひごのかみ)を遣(つかは)し、神奈川沖(かながはおき)に繋泊(けいはく)せる米國軍艦上(べいこくぐんかんじやう)に於(おい)てハリスに會見(くわいけん)し即時(そくじ)に日米條約調印(にちべいでうやくてういん)を行(おこな)はしめた。
時(とき)に安政(あんせい)五年(ねん)六月(ぐわつ)十九日(にち)であった。

二、タウセント、ハリス  

 タウセント、ハリスは、安政(あんせい)三年(ねん)七月(ぐわつ)、米國總領事兼全權公使(べいこくそうりやうじけんぜんけんこうし)として、我國(わがくに)に渡來(とらい)したる以來(いらい)、幾多(いくた)の危險(きけん)を冒(をか)し困難(こんなん)を忍(しの)び、外交不慣熟(ぐわいかうふくわんじゆく)の幕府(ばくふ)を開發誘導(かいはついうだう)するに、毎事機會(まいじきくわい)を捕(とら)へて失(うしな)はなかつたが、茲(こゝ)に漸(やうや)く日米條約調印(にちべいでうやくてういん)を了(れう)するに至(いた)つた。彼(かれ)は自國(じこく)の爲(ため)に謀(はか)り、時(とき)に虚喝(きよかつ)を交(まじ)へたる事(こと)もあれど、内(うち)に満腔(まんこう)の懇情(こんじやう)を有(いう)し、終始(しうし)我(われ)に對(たい)して好意(かうい)を表(へう)した。
 彼(かれ)は幕府(ばくふ)の官吏(くわんり)に懇説(こんぜい)して、開國貿易(かいこくぼうえき)の利益(りえき)を覺(さと)らしめ、幕府(ばくふ)の最(もつと)も親善(しんぜん)なる味方(みかた)として、常(つね)に最高顧問(さいかうこもん)となり、條約文案(でうやくぶんあん)の如(ごと)き盡(ことごと)く彼(かれ)の手(て)に成(な)れりといふ。彼(かれ)は亞片禁止(あへんきんし)の必要(ひつえう)を示(しめ)して、我國(わがくに)をして永(なが)く此(この)禍害(くわがい)を免(まぬが)れしめ、兇徒(きやうと)米國公使館書記(べいこくこうしくわんしよき)ヒユースケンを襲殺(しゆうさつ)するや、外國公使等(ぐわいこくこうしら)激怒(げきど)して、外人身命保護不行届(ぐわいじんしんめいほごふゆきとゞき)を詰責(きつせき)せんと提議(ていぎ)したるも、彼(かれ)は我(わ)が内情(ないじやう)の困難(こんなん)に同情(どうじやう)し、幕府(ばくふ)の誠意(せいい)を諒(りやう)して之(これ)を不問(ふもん)に付(ふ)し、他國公使(たこくこうし)が國旗(こくき)を撤(てつ)して横濱(よこはま)に去(さ)りしときも、彼(かれ)は獨(ひと)り江戸(えど)に留(とゞま)り動(うご)かざりし如(ごと)き、吾人(ごじん)は我(わ)が開國(かいこく)の初期(しよき)内訌外難(ないかうぐわいなん)の時(とき)に當(あた)り、彼(かれ)が我(われ)に與(あた)へし誠意(せいい)と助力(じよりよく)を特(とく)に記憶(きおく)せねばならぬ。
彼(かれ)は敏腕(びんわん)なる外交官(ぐわいかうくわん)にして、気品高(きひんたけ)き紳士(しんし)であつた、而(しか)してまた忠實(ちうじつ)なる敎會員(けうくわいゐん)であった。彼(かれ)は我國在留中(わがくにざいりうちう)も主日(しゆじつ)を嚴守(げんしゆ)した。或年(あるとし)の正月(しやうぐわつ)將軍家(しやうぐんけ)より、紀州産(きしうさん)の蜜柑(みかん)を入(い)れたる大籠(おほかご)を賜(たまは)りたるが、其日(そのひ)は日曜日(にちようび)なればとて之(これ)を受(う)けず、翌月曜日(よくげつようび)に受取(うけと)りたりといふ。彼(かれ)が其日(そのひ)の日記(につき)に曰(いは)く、「余(よ)が日曜日(にちようび)を重(おもん)ずるの嚴(おごそ)かなる規則(きそく)は、タイクーン(將軍家(しやうぐんけ))の爲(ため)にも改變(かいへん)すべからざる者(もの)なるを、日本人(にほんじん)に示(しめ)したるを喜(よろこ)ぶ」と。
彼(かれ)はまた毎主日(まいしゆじつ)には必(かな)ず正格(せいかく)に、米國聖公會祈禱書(べいこくせいこうくわいきたうしよ)に依(よ)りて禮拝(れいはい)を捧(さゝ)げた。彼(かれ)は日記(につき)に書(しよ)して曰(いは)く、「思(おも)ふに日本(にほん)に於(おい)て、上帝(じやうてい)に祈禱(きたう)を捧(さゝ)ぐるため、此書(このしよ)を使用(しよう)したるものは、予(よ)を以(もつ)て嚆矢(かうし)となすを得(え)んか。此後(このご)聖別(せいべつ)したる日本(にほん)に於(お)ける敎會(けうくわい)に於(おい)て、同一(どういち)なる祈禱書(きたうしよ)を以(もつ)て祈禱(きたう)を捧(さゝ)ぐる日(ひ)は、幾年(いくねん)の後(のち)に來(きた)るべき乎(か)」と。
而(しか)して彼(かれ)は常(つね)に機會(きくわい)を窺(うかゞ)ひ、幕府(ばくふ)をして切支丹禁制(きりしたんきんせい)の法令(ほふれい)を撤去(てつきよ)せしめ、信敎(しんけう)の自由(じいう)を許諾(きよたく)せしめんと力(つと)めた。

三、我國最初の新敎公禮拜式  

 既(すで)に日米和親通商條約調印(にちべいわしんつうしやうでうやくてういん)を了(れう)し、極東帝國(きょくとうていこく)をして開國(かいこく)に一轉歩(てんほ)を進(すゝ)ましめ、故國(ここく)の大使命(たいしめい)を全(まつた)ふしたる彼(かれ)は、茲(こゝ)に至(いた)つて既往(きわう)を顧(かへり)みて感慨無量(かんがいむりやう)、感謝(かんしや)の念(ねん)頻(しき)りに催(もよほ)されたであらう。宜(むべ)なる哉(かな)、彼(かれ)は、條約調印後(でうやくてういんご)八月(ぐわつ)一日(じつ)日曜日(にちえうび)、下田港(しもだかう)に碇泊(ていはく)せる米艦(べいかん)ポウハタン、ミシシッピ兩艦(りやうかん)の士官水兵(しくわんすゐへい)を召集(せうしう)して、嚴肅(げんしゆく)なる禮拜式(れいはいしき)を擧行(きよかう)した。是(こ)れ實(じつ)に我國(わがくに)に於(お)ける最初(さいしよ)の新敎公禮拜式(しんけうこうれいはいしき)にして、日本傳道史上(にほんでんだうしじやう)に特筆(とくひつ)すべきものである。此(この)禮拜式(れいはいしき)に列(れつ)したる米國海軍將官(べいこくかいぐんしやうくわん)は、當時(たうじ)の光景(くわうけい)及(およ)び感想(かんさう)を記(しる)して、左(さ)の如(ごと)く報(ほう)じた。

『八月(ぐわつ)一日(じつ)日曜日(にちえうび)は、ポウハタン及(およ)びミシシッピ兩艦(りやうかん)の士官(しくわん)と水兵(すゐへい)に取(と)りて、忘(わす)る可(べ)からざる日(ひ)に候(そろ)。此(この)兩艦(りやうかん)は一兩日前(りやうじつぜん)江戸灣(えどわん)より歸來(きらい)し、目下(もくか)江戸(えど)を去(さ)る約(やく)七十哩(まいる)なる下田(しもだ)の心地(こゝち)よき港(みなと)に碇泊(ていはく)いたし居候(をりそろ)。下田(しもだ)は人口(人口)壹萬(まん)もあらんかと見(み)ゆる町(まち)にて、町外(まちはづ)れに總領事(そうりやうじ)タウセント、ハリス閣下(かくか)の、亞米利加合衆國々旗(アメリカがつしゆうこくこくき)は高(たか)く空中(くうちう)に翩々(へんへん)として飜(ひるがへ)り居(を)り候(そろ)。日本(にほん)の地(ち)に曾(かつ)て立(た)てられざりし此(この)國旗(こくき)の稍(や)や後方(こうほう)に、ハリス閣下(かくか)の御住家(ごぢゆうか)あり、閣下(かくか)の御住家(ごぢゆうか)は佛敎(ぶつけう)の殿堂(でんだう)にして、閣下(かくか)の御住居(ごぢゆうきよ)に適用(てきよう)すべく、堂内(だうない)の醜惡(みにく)き佛像(ぶつぞう)は悉皆(しつかい)取除(とりのぞ)かれ候(そろ)。然(しかし)ながら其等(それら)の佛像(ぶつぞう)は、恰(あたか)も住(す)み慣(な)れし殿堂(でんだう)を人手(ひとて)に渡(わた)すを甚(はなはだし)く厭(いと)ふものゝ如(ごと)く、尚(な)ほ周圍(しうゐ)の壁(かべ)に傍(そ)ふて排列(はいれつ)せられ、彼等(かれら)を堂内(だうない)より逐出(おひだ)して彼處(かしこ)に置(お)き、かくも其神聖(そのしんせい)を瀆(けが)したる者等(ものども)を、怖(おそろ)しくも逆鱗(ぎやくりん)ましまして、睨(にら)まへ居(を)り候(そろ)。ハリス閣下(かくか)が靜(しづ)かに虚誇(きよご)なく談判(だんぱん)したる條約(でうやく)は、二人(にん)の幕府(ばくふ)の全權(ぜんけん)來(きた)りて、我(わ)が代將軍(コンモトア)の前(まへ)にて記名調印(きめいてういん)し、我(わ)が艦上(かんじやう)に於(おい)て首尾能(しゆびよ)く決了(けつれう)いたし候(そろ)。かくて日本(にほん)に於(お)ける基督敎信仰自由(きりすとけうしんかうじいう)の爲(ため)に、豫(あらかじ)め謀(はか)るに至(いた)り候(そろ)。此(これ)は何人(なにびと)に取(と)りても感謝(かんしや)すべき事(こと)にて、特(とく)にハリス閣下(かくか)の如(ごと)き基督敎徒(きりすとけうと)に取(と)りては、感謝(かんしや)せざるべからざる事(こと)に候(そろ)。されば閣下(かくか)は御自身(ごじしん)の家(いへ)にて、米國々旗(べいこくこくき)の下(もと)に、殆(ほとん)ど二世紀半以前(せいきはんいぜん)、十萬(まん)の基督敎徒殉死者(きりすとけうとじゆんししや)を天(てん)に上(のぼ)らしめたる迫害(はくがい)の火焰(くわえん)消(き)へし後(のち)、こゝに第(だい)一の基督敎禮拜式(きりすとけうれいはいしき)を執行(しつかう)すべく願望致(ぐわんもういた)され候(そろ)。我等(われら)は曾(かつ)て少(すくな)くも十萬(まん)の人口(じんこう)を有(いう)する長崎(ながさき)に在(あ)りしが、該市(がいし)には敎會病院(けうくわいびやうゐん)大學校(だいがくかう)數個(すうこ)の神學院(しんがくゐん)もあり、其(その)の一は貴族(きぞく)の子弟(してい)を聖職(せいしよく)に敎育(けういく)する爲(ため)の神學院(しんがくゐん)にてありし由(よし)、基督敎(きりすとけう)は一度(ど)はかくも日本(にほん)に於(おい)て、隆々(りうりう)の勢(いきほひ)を極(きは)め候(そろ)。昔(むかし)は長崎市(ながさきし)のみにても、四萬(まん)の敎徒(けうと)ありし由(よし)に候(そろ)。小官(せうくわん)は、迫害(はくがい)の歴史家(れきしか)が殉敎者(じゅんけうしや)の山(やま)と稱(しょう)せし刑場(けいじやう)の聖地(せいち)をも發見致(はつけんいたし)し申候(まをしそろ)。又(ま)た其後(そのご)千七百年頃(ねんごろ)、最後(さいご)に殘(のこ)れる敎徒(けうと)が幽閉(ゆうへい)せられ、慘刑酷罰(ざんけいこくばつ)を加(くは)へられたる古(ふる)き牢獄(ろうごく)も、今猶(いまな)ほ舊跡(きうせき)を留(とゞ)め居(を)り候(そろ)。小官(せうくわん)は不幸(ふかう)にして其跡(そのあと)を訪(と)ひ之(これ)を調査(てうさ)し、曾(かつ)て其處(そこ)に行(おこな)はれたる悽慘(せいさん)なる光景(くわうけい)、其怖(そのおそ)ろしき記憶(きおく)により一層物悽(そうものすご)からしむる光景(くわうけい)に臨(のぞ)んで、瞑想沈思(めいそうちんし)し得(え)ざりしは甚(はなは)だ遺憾(ゐかん)に候(そふら)ひき。長崎(ながさき)を去(さ)る遠(とほ)からぬ島原(しまばら)の町(まち)には、曾(かつ)て堅固(けんご)なる城廓(じやうくわく)あり、此處(こゝ)に迫害(はくがい)の爲(ため)に身(み)を措(お)く地無(ちな)く、諸國諸所(しよこくしよしよ)より集合(しうがふ)したる敎徒(けうと)三萬(まん)七千人(にん)有之候(これありそふら)ひしが、一人(にん)も殘(のこ)らず悉(ことごと)く攻(せ)め滅(ほろ)ぼされ申候(まをしそろ)。最後(さいご)の殉敎者(じゅんけうしや)が、迫害(はくがい)の火焰(くわえん)の中(うち)に天(てん)に歸(かへ)り候以來(そろいらい)、今(いま)は幾星霜(いくせいさう)を經(へ)たれども、凡(すべ)て是等(これら)の光景(くわうけい)は我等(われら)の記憶(きおく)にあり、殆(ほと)んど我等(われら)の眼前(がんぜん)に其状(そのじやう)を呈(てい)し候(そろ)。巡禮者(じゆんれいしや)がプリマスロツクに上陸(じやうりく)したる頃(ころ)、此(この)戰慄(せんりつ)すべき迫害(はくがい)は此處(こゝ)に行(おこな)はれて、基督敎(きりすとけう)は盡滅(じんめつ)いたし候(そろ)。同時(どうじ)に彼處(かしこ)には基督敎(きりすとけう)移植(いしよく)せられ、爾來(じらい)我國(わがくに)は文明(ぶんめい)の域(ゐき)に進(すゝ)み、富(とみ)も力(ちから)も名聲(めいせい)も宗敎(しうけう)も愈々(いよいよ)發達(はつたつ)致(いた)し候(そろ)。然(しか)るに爾來(じらい)長時代(ちやうじだい)の間(あひだ)、三四千萬(まん)の住民(ぢゆうみん)を有(いう)する日本(にほん)には、一度(ど)も基督敎再興(きりすとけうさいこう)に盡力(じんりよく)せられたることなく、誰(たれ)一人(にん)此地(このち)に進(すゝ)んで傳道(でんだう)を試(こゝろ)みし者(もの)もなく、一の傳道會社(でんだうくわいしや)も宣敎師(せんけうし)を派遣(はけん)せしこと無之候(これなくそろ)。然(しか)るに奇(き)なるかな、我等(われら)米國民(べいこくみん)は今(いま)こゝに、基督敎(きりすとけう)が火(ひ)と刄(やいば)を以(もつ)て撲滅(ぼくめつ)せられし以來(いらい)、最初(さいしよ)の基督敎禮拜式(きりすとけうれいはいしき)、時機到來(じきたうらい)の劈頭第(へきとうだい)一の新敎禮拜式(しんけうれいはいしき)を偶像(ぐうざう)の殿堂(でんどう)に於(おい)て擧行(きよかう)するに至(いた)りしとは!
 聖書(せいしよ)は朗讀(らうどく)せられ、祈禱(きたう)は捧(さゝ)げられ、説敎(せつけう)は宣(の)べ傳(つた)へられ、而(しか)してシオンの讃美歌(さんびか)、美(うつく)しく淸(きよ)く歌(うた)はれ候(そろ)。此(この)讃美歌(さんびか)は、何(いづ)れも皆(みな)幼(おさな)き時(とき)より歌(うた)ひ慣(な)れたるものに候(そろ)が、日本(にほん)に於(おい)て最初(はじめ)て歌(うた)はれ、餘音(よゐん)嫋々(でうでう)此(この)古(ふる)き殿堂(でんだう)に響(ひゞ)き渡(わた)り候時(そろとき)ほど、美(うつく)しくまた感興(かんきやう)深(ふか)きことは無之候(これなくそろ)。此日(このひ)は太陽(たいやう)赫灼(くわくしやく)として輝(かゞや)き、萬籟寂(ばんらいせき)として聲(こゑ)なく、最(いと)も物静(ものしづ)かなる日(ひ)に候(さふら)ひき。日本人(にほんじん)は大刀小劒(だいたうせうけん)を挾(たばさ)みて、我等(われら)の許(もと)に飛(と)び込(こ)み來(きた)らず、靜穩(せいをん)にうやうやしく、興味(きやうみ)あり氣(げ)に、此(この)珍(めづ)らしき光景(くわうけい)を傍觀(はうくわん)いたし居(を)り候(そろ)。あゝ這(こ)はそも夢(ゆめ)にてありしか、幻影(まぼろし)にてありしか、そもまた現實(げんじつ)にてありしか、若(も)し現實(げんじつ)ならば、茲(こゝ)に至(いた)らしめたるものは、何(なに)ものに候(そろ)ぞや。禮拝(れいはい)終(をは)り會衆(くわいしゆう)は何(いづ)れも皆(み)な沈黙(ちんもく)に、而(し)かも深(ふか)き感慨(かんがい)に満(み)ちつゝ退艦(たいかん)致(いた)し申候(まをしそろ)。』

四、タウセント、ハリスの書簡  

 米國海軍將官(べいこくかいぐんしやうくわん)は、斯(か)く日本最初(にほんさいしよ)の新敎禮拜式(しんけうれいはいしき)の光景(くわうけい)及(およ)び感想(かんそう)を記(しる)したる後(のち)、更(さら)に米國政府(べいこくせいふ)がハリスに與(あた)へたる訓令(くんれい)に就(つ)いて語(かた)つた。彼(かれ)は其日(そのひ)ハリスに招(まね)かれ、事務室書齋圖書室(じむしつしよさいとしよしつ)を兼(かね)たる一室(しつ)に至(いた)りしに、ハリスは一見重要(けんぢゆうえう)なる文書(ぶんしよ)と覺(おぼ)しき書類(しよるゐ)を持(も)ち來(きた)り、其(その)一部分(ぶぶん)を讀(よ)み聽(きか)せられたるが、そは國務卿(こくむきやう)マーレー閣下(かくか)より與(あた)へられたる訓令書(くんれいしよ)なる事(こと)は明白(めいはく)なりといひ、該文書(がいぶんしよ)に於(おい)て、國務卿(こくむきやう)マーレー閣下(かくか)は、總(あら)ゆる賢明(けんめい)なる方略(はうりやく)と仁慈(じんじ)の力(ちから)を以(もつ)て、日本(にほん)に於(お)ける基督敎信仰(きりすとけうしんかう)の十全(ぜん)なる自由(じいう)、及(およ)び布敎(ふけう)の目的(もくてき)を以(もつ)て來(きた)る宣敎師(せんけうし)、其他(そのた)の人々(ひとびと)に對(たい)する保護(ほご)を得(え)ん爲(ため)に、最善(さいぜん)を盡(つく)すべしと、ハリスに訓令(くんれい)せられたりと記(しる)した。
 タウセント、ハリス氏(し)が、幕府(ばくふ)をして基督敎禁制(きりすとけうきんせい)を撤廢(てつぱい)せしむべく、熱誠(ねつせい)なる辯明忠告(べんめいちゆうこく)は、如何(いか)なる程度(ていど)まで貫徹(くわんてつ)したるかは詳(つまびら)かでない。惟(おも)ふに、當時(たうじ)幕府(ばくふ)の偏見(へんけん)と頑迷(ぐわんめい)には、氏(し)の熱誠(ねつせい)なる盡力(じんりよく)を以(もつ)ても、打克(うちか)つことができなかつたが、それとも我(わ)が國情(こくじやう)を察(さつ)し、幕府(ばくふ)の窮境(きうきやう)に同情(どうじやう)し、現状(げんじやう)に於(おい)て基督敎(きりすとけう)の解禁(かいきん)を強迫(きやうはく)するは尚早(なほはや)しと認(みと)め、やがて必(かなら)ず其時機(そのじき)の來(きた)るべきを期(き)し、徐(おもむ)ろに幕府(ばくふ)を誘導勸諭(いうだうくわんゆ)するに努(つと)めたのであらう。左(さ)に掲(かゝ)ぐるものは、氏(し)が上海(シヤンハイ)の友人(いうじん)(米國聖公會宣敎師(べいこくせいこうくわいせんけうし))に送(おく)られたる書簡(しよかん)である。氏(し)の鋭眼(えいがん)なる觀察(くわんさつ)のほどを知(し)るべく、また以(もつ)て聊(いさゝ)か此(この)問題(もんだい)に關(くわん)する消息(せうそく)を窺(うかゞ)ふに足(た)るであらう。

『拜復(はいふく)、御尋(おんたづ)ねの趣(おもむき)は、拙者(せつしや)の力(ちから)に及(およ)ぶ限(かぎ)り御答(おこた)へ可申上候得共(まおしあぐべくそらへども)、小生(せうせい)の所見(しよけん)或(あるひ)は誤(あやま)れるもの有之(これあり)やも難計(はかりがたく)、此儀(このぎ)豫(あらかじ)め御承知被下度候(ごしやうちくだされたくそろ)。抑(そもそ)も日本人(にほんじん)は最(もつと)も些細(ささい)なることにても、隠匿(いんとく)するの奇習(きしふ)ありて、そは二千年以來(ねんいらい)の風習(ふうしふ)に有之(これあり)、且又(かつまた)小生(せうせい)は彼等(かれら)と談(だん)するには、一々通譯者(つうやくしや)の助(たす)けを借(か)るの不便(ふべん)を有(いう)し候(そろ)に付(つき)、小生(せうせい)の觀察(くわんさつ)恐(おそら)くは正鵠(せいかう)を得(え)ざる所(ところ)あるべく、此邊(このへん)の事情(じじやう)篤(とく)と御洞察(ごどうさつ)を願上候(ねがひあげそろ)。以上(いじやう)の御斷(おことはり)を以(もつ)て御答申上候(おこたへまをしあげそろ)に付(つき)、宜敷(よろしく)充分(じゆうぶん)の御斟酌(ごしんしやく)あらんことを希望仕候(きばうつかまつりそろ)。

貴問第(きもんだい)一、日本政府(にほんせいふ)をして、外國(ぐわいこく)に對(たい)する政策(せいさく)を變(へん)ぜしめたる原因(げんいん)は何(なん)そや。

答(こたへ)、此點(このてん)に就(つい)ては、詳細(しやうさい)に御答申上(おこたへまをしあ)げんと欲(ほつ)せば、勢(いきほ)ひ目下(もくか)大統領(だいとうれう)の手中(しゆちゆう)にある事件(じけん)を公(おほやけ)にせざるを得(え)ず。而(しか)してこは大統領(だいとうれう)の許可(きよか)なくては發表(はつぺう)し難(がた)き次第(しだい)に候(そろ)。

貴問第(きもんだい)二、日本(にほん)と外國(ぐわいこく)との現今(げんこん)の友義的關係(いうぎてきくわんけい)は、永續(えいぞく)すべきものなりや否(いな)や。

答(こたへ)、日本人(にほんじん)は小心翼々(せうしんよくよく)として、條約上(でうやくじやう)の義務(ぎむ)を守(まも)るべく候(そろ)。而(しか)して若(も)し現今(げんこん)の交諠(かうぎ)にして破(やぶ)ることありとせば、そは外國人(ぐわいこくじん)の干犯(かんはん)より生(せう)ずべく、日本政府(にほんせいふ)の背信(はいしん)より生(せう)ずることは萬(まん)なかるべく候(そろ)。

貴問第(きもんだい)三、政治上(せいぢじやう)に於(おい)て既(すで)に現(あら)はれたると、同一(どういつ)の行爲(かうゐ)を宗敎上(しうけうじやう)の變化(へんくわ)に於(おい)ても、等(ひと)しく豫期(よき)し得(う)べきや否(いな)や。

答(こたへ)、日本人(にほんじん)は從來(じゆうらい)基督敎(きりすとけう)を以(もつ)て、侵略(しんりやく)及(およ)び政府顚覆(せいふてんぷく)の思想(しさう)と密接(みつせつ)の關係(くわんけい)あるものと見做(みな)し居候(をりそろ)。人民(じんみん)としては彼等(かれら)は何等(なんら)排異敎的感情(はひいけうてきかんじやう)を有(いう)せずと云(いふ)を得(え)べく、而(しか)して國内(こくない)に於(お)ける彼等(かれら)の三大宗教(だいしうけう)は、全人民(ぜんじんみん)が等(ひと)しく共(とも)に維持(ゐぢ)致(いた)し居(を)る様(やう)に相見(あひみ)え候(そろ)。概(がい)して彼等(かれら)の宗敎上(しうけうじやう)に關(くわん)する特徴(とくちやう)は、無頓着(むとんぢやく)にありと云(い)ふを得(え)べく、彼等(かれら)が禮拜(れいはい)の標識(へうしき)に對(たい)しては、何等(なんら)の崇敬(すうけい)の念(ねん)を有(いう)せず候(そろ)。拙者(せつしや)は日本人(にほんじん)に對(たい)して、現今(げんこん)基督敎(きりすとけう)の恐(おそ)るゝに足(た)らざることを説(と)き、最早該敎(もはやがいけう)は劔(けん)の切先(きつさき)にて宣傅(せんでん)せらるゝことなく、何等(なんら)の異圖(いと)をも抱(いだ)くものにあらざることを會得(えとく)せしむる爲(た)めに、最(もつと)も力(ちから)を盡(つく)し居候(をりそろ)。此國傅道(このくにでんだう)の將來(しやうらい)の成功(せいかう)は一に繋(かゝ)つて、派遣(はけん)せらるゝ初代(しよだい)宣敎師(せんけうし)の性行(せいかう)、擧動(きよだう)の上(うへ)に可有之(これあるべく)、若(も)し其人物(そのじんぶつ)が愼重堅忍(しんてうけんにん)の士(し)にして、能(よ)く辨別自制(べんべつじせい)の力(ちから)ある人々(ひとびと)ならば、其(そ)が遂(つひ)に好結果(かうけつくわ)を生(せう)ぜんこと、拙者(せつしや)の疑(うたが)はざる所(ところ)に候(そろ)。

貴問第(きもんだい)四、日本(にほん)の冶者及人民(ぢしやおよびじんみん)に基督敎(きりすとけう)を以(もつ)て近(ちか)づく最良方法(さいりやうはうはふ)は如何(いかん)。

答(こたへ)、之(こ)れ貴問中(きもんちゆう)の最(もつと)も答辯(たうべん)に難(かた)き箇條(かでう)に候(そろ)。日本人(にほんじん)は道理(だうり)に服(ふく)すること著(いちじる)しき人民(じんみん)に有之候得(これありさふらえ)ば、宣敎師等(せんけうしら)は國語(こくご)を學習(がくしふ)さへせば、容易(やうい)に實際的議論(じつさいてきぎろん)を以(もつ)て彼等(かれら)に近(ちか)つき得(う)べく候(そろ)。 若(も)し夫(そ)れ如何(いか)なる程度(ていど)まで、印刷物(いんさつぶつ)を公布(こうふ)するを許(ゆる)さる可(べ)きかは、只今(たゞいま)の處(ところ)拙者(せつしや)に於(おい)て明言致(めいげんいた)し難(がた)く候(そろ)。拙者(せつしや)の所見(しよけん)に依(よ)れば、學校(がくかう)を興(おこ)し英語(えいご)を敎(をし)へ、又貧民(またひんみん)を施療(せれう)する如(ごと)きは、最(もつと)も傅道(でんだう)の爲(ため)に有益(いうえき)なる働(はたら)きたるべく候(そろ)。

貴問第(きもんだい)五、日本人(にほんじん)の冶者及人民中(ぢしやおよびじんみんちゆう)に、支那(しな)の書籍(しよせき)の用(もち)ゐらるゝ程度如何(ていどいかん)。

答(こたへ)、凡(すべ)ての貴族(きぞく)、武士(ぶし)、文人及醫師(ぶんじんおよびいし)は大概漢籍(たいがいかんせき)を讀(よ)み候(そろ)。

貴問第(きもんだい)六、出版(しゆつぱん)の自由(じいう)は如何(いかん)。

答(こたへ)、日本(にほん)には未(いま)だ新聞紙(しんぶんし)なるもの無之(これなく)、而(しか)して不穏當(ふをんたう)と認(みと)むるものは、政府(せいふ)其發行(そのはつかう)を許(ゆる)さゞるべく候(そろ)。書籍(しよせき)は甚(はなは)だ饒多(ぎやうた)にして、且安價(かつあんか)に有之(これあり)、之等(これら)は支那字(しなじ)と假名文字(かなもじ)にて印刷(いんさつ)し有之候(これありそろ)。

貴問第(きもんだい)七、國民中(こくみんちゆう)文字(もんじ)を知(し)る者(もの)の數(すう)如何(いかん)。

答(こたへ)、拙者(せつしや)の見(み)る所(ところ)によれば、讀(よ)み書(かき)の知識(ちしき)、日本程(にほんほど)に普及(ふきふ)せるは世界(せかい)の何處(いづこ)にもなかるべく候(そろ)。

貴問第(きもんだい)八、日本帝國(にほんていこく)の人口(じんこう)は幾許(いくばく)ありや。

答(こたへ)、未(いま)だ正確(せいかく)なる戸籍調査(こせきてうさ)は無之(これなく)、勿論(もちろん)一定(てい)の時(とき)に於(おい)て、或階級(あるかいきふ)の人員(じんゐん)は取調候得共(とりしらべそらえども)、一般人民(ぱんじんみん)は數(かず)へらるゝこと無之候(これなくそろ)。されど拙者(せつしや)が有識(いうしき)なる人民(じんみん)、并(ならび)に最(もつと)も其事(そのこと)に詳(くは)しかるべき人々(ひとびと)より得(え)たる見積(みつもり)は、三千萬乃至(ないし)五千萬人(にん)に有之候(これありそろ)。』

 

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