私と復活のイエス
復活の教義はキリスト者にとって歴史的な出来事に関連している事は確かであるが、また同時にその歴史を超えた現実として、今日の私の、そして皆様の生と死に深く関わる事であります。そうでなければ一年に一回復活節として大切に守り、歴史上の単なる出来事として眺めるに留まり、私たちの霊的な生活を真に新たにする力とはなりえないのではないでしょうか。私の個人的に尊敬する神学者の八木誠一氏は「イエスは私たちを目覚めさせる方」と定義しました。
聖書を通してイエス様のみ言葉と生き様に接した人は決して以前のままではいられないと同様に、復活のイエスを記念する毎日曜日の礼拝に出席する者は生と死に関する「不確かさ」あるいは「疑い」
が「確かなもの」に変化することを経験しなければならないのではないでしょうか。
「復活祭前夜に届く訃報かな」。まずい俳句ではありますが復活前夜Eメールで癌を患っていた義弟の死に接して詠んだ句です。義母も腎臓癌で余命幾ばくもないと言われ、今回の訪日の目的の一つは義母に「最後の挨拶」を告げることでもありました。私の母も89歳で毎年これが最後と思い親孝行の真似事をする為訪日しています。今回は「これが最後になるかもしれない」といいつついつもより多い小遣いをくれました。私にとって「復活のメッセージ」は単なる尊い教理だけではなく、今の私の究極的な関心事でもあるのです。
本日の福音書によると復活したイエス様は「あなたがたに平和があるように。。。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってみなさい。」と言われました。この言葉は今、なにを私たちに告げようとしているのでしょうか。それは復活したイエス様を単に神秘的な人物のように眺めるのではなく、あの十字架から蘇られた主、そして今もこの聖餐式の真の司式者として現臨し、聖餐を通して復活の命を与え続けられる主、又、私たちの日々の生活の中で私たちが知覚しようが、しまいが、決して私たちを忘れたり、見捨てたりすることなく、絶えず、どのよう時にも共に歩んでくださる「同行者イエス」を、目を覚まし、凝視する事をイエス様は求めておいでになるのではないでしょうか。
お遍路さんの編み笠に書かれた「同行二人」なる言葉に示される信仰と同様、どんな時にも私たちは一人ではなく、イエス様と一緒であることが示されているともいえるのではないでしょうか。
イエス様がお見せになった手と足は、復活を今の私たちの現実から離れ、なにか精神的な世界に移行してしまうように、私たちのこの現実を離脱して見て欲しくはない。また手と足は「十字架の死」を
単なる過去の出来事として弟子たちに思い起こせさす「印」でも「表徴」でもない。それは復活し今もここにいましたもう、そして私たちの日々の現実と関わりたもう主イエス様ご自身の現実を指し
示しているように思います。
又、イエス様がお見せになった手と足はイエス様が弟子たちと分かち合った生の現実を彼らに思い起こさせようとしておられるのではないでしょうか。したがって私たちもイエス様の復活をイエス様の十字架の死に続いて起こった歴史的な神秘としてではなく、歴史を超えて今の死すべき私たち一人一人と深く関わりたもう現実として、この聖餐にて復活の主と出会わなければならないと思います。
復活というと、私たちは肉体の蘇りの信仰を思い起こしやすく、死後の神秘的な現象と思い込んでいることが多いようです。しかし、福音書における復活は決して世の終わりに際しての、私たちの蘇りに対する信仰を直接示しているのではないと思います。むしろ弟子たちを喜ばせたのはイエス様との出会いそのものです。弟子たちは復活のイエスとの出会いによって全く新しい生の次元に導かれたので
す。そしてその次元を体験させられたのです。そして今、復活の使信を聞く私たちの生にも新しい次元が開かれなければならないのです。復活のイエス様に聖餐を通して出会った私たちの生の、全ての
現実に括弧が掛けられるのです。アメリカ聖公会の祈祷書では聖別祷のなかでイエスにあって「私たちは誤りから真理へ、罪より正義に、死から命に移った」と告白します。
このことはイエス様が復活しても弟子たちと食事を共にすることをお求めになっていることがそれを示しています。
“「ここになにか食べ物があるか」と言われた。そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた”(ルカ24:41−42)
弟子たちが復活したイエス様に出会ったのは、一時的にせよ決して死後の世界への超越によってではなかったのです。むしろ食べたり飲んだりする彼らの死すべき現実の中でした。現在の私たち一人一
人にとっても同じ事が言えるのではないでしょうか。お墓が存在し私たち一人一人は例外なくその墓に入るという現実の中で復活されたイエス様は私たちと関わりを持ちたもうというのが復活の使信で
あると信じます。教会で繰り返し繰り返しなされる聖餐こそその保証であり、現実でありそして先取りであるのです。もし、私たちが復活を死後という神秘的な次元に想定しているなら、私たちは決し
て今も現臨したもう復活の主に出会うことはないでしょう。今のこの死によって脅かされている生の現実こそ主イエスと出会い、私たちが新しい存在に作り変えられる恵みの現実なのです。
イエス様の蘇りによって私たちに明かになった事は私達は死んでも神は死の中から私たちを新しい存在に作り直す事の出来る力だ、ということです。
イエスは神の子として「私は蘇りであり命である。私を信ずるものはたとえ死んでも生きる」と私たち一人一人に呼びかけられました。つまり私達はたとえ死んでもイエス様の上において示されたよ
うに神の力によって新しい存在に作り直されるが、その為には神が私たちの為に送って下さったイエス様を信じなければならないのです。「私を信ずるものはたとえ死んでも生きる」、すなわち創造し直される、とイエス様は言われるのです。
イエス様を信ずるとは具体的になにを意味するのでしょうか?それはイエス様が私たちに語りかけられるその言葉を聞いてそれに従うことです。
他の言葉で言えば「イエス様とイエス様の言葉を信じ、神の力、神の命、永遠の命、を私たちに持ってきてくださる方としてイエス様を受け入れ、私たちがイエス様の後についていくならば、「蘇りの命」が、言い換えれば自己中心に凝り固まっている私たち人間を根本的に創造しなおす神の力が、今から私たちの上に働き始めるのです。
聖パウロは復活した主との出会いを次のように述べています:「闇の中から光りが輝き出るように」と命じた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光を悟らせるように、光を与えてくださったのです」(2コリント4の6)。
闇と光、この概念こそ、聖書の大切な概念であると思います。私たちの存在の中に光と闇が共存している。他の言葉で言えば光としての真の自己(セルフ)と、闇としての自我(エゴ)が共存し、どんなことがあっても、私たちの存在にあって闇が光を覆い尽くすことを避けなければならないと思います。全ての宗教はこの自我をいかにコントロールするかを教えているように私は考えています。イスカリオテのユダは闇が光を覆ってしまった悲劇的な私たちの象徴であります。他の言葉で言えば、この闇とは私たちの不信、心の闇を意味しています。私たちがキリストと共に蘇るのは死後の肉体の蘇りにおいてだけではなく、今、主イエスに全てを委ねることによって「復活の命」を頂くことが復活信仰であると信じます。不確かさと、疑いと不信にゆれる私たちにの生の現実の真っ只中において復活の主は「安かれ」と語りかけられるのです。復活の主と共にあるときにのみ私達は真の平安を得ることが出来るのです。このゆえティリッヒは神を「存在の根拠」と説明しました。この私たち一人一人に備えられた恵みをただ感謝いたしましょう。 合掌 (5月7日 主日礼拝説教より)
伊藤宏司祭のプロフィール
サンパウロ聖十字教会主任司祭。
1939年奈良に生まれる。高校時代、聖公会奈良基督教会にて受洗、堅信礼を受ける。立教大学キリスト教学科に勉学中献身を決意し、池袋聖公会会員時代に東京教区聖職候補生となる。東京教区後藤主教とブラジル聖公会中央教区シェリル主教の話し合いで渡伯。ブラジル聖公会神学大学卒業。1968年リオ聖三一教会にて司祭按手受領。1965年ブラジル聖公会の3教区が米国聖公会の宣教教区から独立管区になるとともに、米国聖公会の援助が大幅に削減され、主教勧告で若手聖職より、教会勤務の傍ら、教会外に仕事を持ち、経済的に自立するようになる。日系銀行に就職、主として国際金融部門で20年間勤務。この間、リオ市、サンパウロ市の諸教会を牧会。
1991年銀行を退職し、牧師専業となる。英国、The Centre for Anglican Comunion Studies,Selly Oakにて勉学。銀行勤務時代の1984年3月、現在地にて開拓伝導を開始、現在に至る。現在、一世の妻と既婚の娘3人、孫4人。
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