来るべくしてきた風邪ひき。クリスマス行事が終わって、忘年会準備中調子が悪くなった。熱はなかったが胸のあたりに寒気が走り頭も痛く、体がだるい。2000年に入って段々とやることが増え、その中には自分で仕事を増やしていったものも多いが、とにかくゆっくりと考える暇が無かったように思う。走りっぱなしといった感じだった。この時期、風邪をひいて特に寒さがこたえる。ゆっくり風呂に入ろうと思ったら湯沸かし器の調子が悪い。風邪をひく身には特にこたえる。世紀から世紀への節目の時をそんなふうに過ごしている。
時の感覚をキリスト教ではオクロスとカイロスという風に分けて考える。オクロスは何時何分といった時間をいう。カイロスとはまさにその時、出来事がある意味を持ったり、具体的行動へと駆り出されたり、人生にとっての大きな気付きを与えられた時などをカイロスという。聖書には沢山のカイロスが出てくる。例えば「ヨハネが捕らえられたのち、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を告げ知らせて、」(マルコ1:14)では洗礼者ヨハネがヘロデに捕らえられた時が、イエスにとって行動の始めとしてのカイロスとなった。
その時は人それぞれみな違う。よく「〜には時がある」(コヘレトの言葉)という。
昔の伝道の書の言葉ですが、6年前の阪神淡路大震災の時にある人が次のような事を言った事が私の心の奥に響いた。「震災時、沢山のボランティアが動き、いつもはおとなしかった大阪教区の青年も動いた。それは震災でない日常生活の中ででも自分を献げていこうとする何かがあるのに、僕らはただそれを若者に伝えてなかっただけじゃないのか。」つまり、人によってその時は違うかもしれないけれど、神様の時はいつでも、どんな時でもその時となりうるんだ、という風に私には感じられた。確かに震災時、沢山のボランティアがいた。しかし、自分を献げていこうとする在り方、それは日常のなかでも起りうる出来事。新世紀だからとかいうのじゃなくて、今を神様の時として生きられたらと思う。20世紀は私にとってカイロスの時の連続だった。
風邪ひき坊主はそんなことで、今を感謝している。神の時を共に過ごしましょう。
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