バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書C) (3)鳩


(4)野獣と天使

  何だか映画(美女と野獣)のタイトルのようですね。野獣の解釈は人によって違っていますが『一つは人間に害を為す獣』、と言う解釈。荒れ野では人間すら野獣になる、例えば戦争という荒れ野において。一つは荒れ野にイエスが居られる場面は、終末の場を表し、その時の野獣は天使と同じ終末の姿である。「おおかみは小羊と共にやどり・・・乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。・・・主を知る知識が地に満ちるからである」(イザヤ11:6〜9)。これは終末的平和の姿です。だから、天使も来てイエスに仕えるのです。サタンに打ち勝たれたイエスに、天使が来てそのお食事の御用に仕えるのだと言われています。アダムはパラダイスで神様との交わりと言う特権を失いました。イエス様はそれを荒れ野で回復された。イエスを信じる人間の終末的栄光を象徴しているのです。 最後に「荒れ野」においてイエスは何を受け、それによってどのような道を進もうとされたか? 「神の子」としての啓示を受け、同時に『主の僕』としての召命を受けられた。この聖霊による啓示はバプテスマを受ける際の一瞬のものではなく同じ聖霊がイエスを荒れ野に追いやって、そこでイエスは身を以ってその啓示を確認させられた。荒れ野は同じく、イエスにとって啓示の時であった。だからイエスは祈りで何時も『アッバ』(お父ちゃん)と呼びかけられる。『わたしの父からすべての事がわたしに引き渡されている。父のほかに子を知る者はなく、また、子のほかに父を知る者はない。そして、子が示してあげようと望む者のほかに、父を知る者はない』。(マタイ11:27市川氏私訳)。これは、子として父から受けている啓示を人々に伝える使命を述べられた。しかも、『主の僕』予言を成就する者としての使命をも自覚し、主の僕の道がイザヤ書53章に予言されているように苦難の道であり、多くの人の為に死にいたる道である事を見つめ、その道を受け入れられた。だから十字架の道を行こうとされるイエスをいさめる弟子(ペテロ)の声に、イエスはサタンの誘惑を見られたのである。そして、「メシア」と悪霊が言った時も、弟子たちが「あなたは神の子メシアです」と告白した時も「これはわたしの子である。これに聞け」と言う声が、天から聞えた時も、秘密を保つように命令された。預言の成就がなるまで。つまり十字架、復活が起こるまで。

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