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沖縄の今

       「沖縄教区時報」

(第449号・20036月20日発行)

「ロバの声」欄から

沖縄戦による廃嘘の中から復興の槌音も高くたち上がったのは教会であった。絵画・音楽あらゆる面で西洋文明に憧れ、キリスト教文化に若者が集まった。西洋に追いつけ、追い越せと追い越していった。三原の丘に聳え立つ教会は、恰好な写生の題材だった。それが今では周囲に乱立するビルに埋もれて見えなくなってしまい若者が教会から去って行った。キリスト教文化の生みの親である神の愛(福音=神の子イエスは、人類の罪の身代わりに十字架に死に、死の恐怖から開放するために甦り、天国に住まいを用意してくださった)に目覚めた者のみが残った。

この救いの喜びを助け主なる聖霊なる神様の助けによって、家庭に戦場に広めようではありませんか。聖霊降臨節おめでとう。(パウロ)


ナザレ修女会沖縄支部

聖ジョージ修道院便り

5月17日に、例年のように修女会の会友会をいたしました。今年は支部開設から40年になりますので、40周年記念の感謝礼拝をしました。50余名の会友その他の方々が出席してくださり、最高齢の砂川ちよの姉(96才)、最年少の成リン君(3才)、老いも若きも共に祈り、歌い、その声が小さい礼拝堂にあふれ、感謝の思いで満たされました。

修女たちが沖縄の地に第一歩を下した時のことを、仲村主教様がお話しくださり、あの時、教役者、信徒の方々が大勢港に出迎えてくださったことや、その後の教区と修道院の40年の歩みを次々と思い出し、これまでの神様もお導き、信徒の皆様の祈りと支えに感謝の思いを新たにしました。

 今修道院の建っている所は、古い信徒喜屋武ウキ姉が住んでおられ、戦後、島袋諸聖徒教会が建ち、次に聖ジヨージ修道院の建つところとなりました。ウキおばあちゃんが「ここが教会と縁のない人手に渡らず、教会になり、修道院になったことは、私も嬉しいよ」と言われたことを覚えています。

 修道院は、はじめの頃は3人か4人の修女たちが常駐しておりましたが、本院の修女が少なくなったことから、今は時々修女が来て2〜4週間いるという状況になっております。ここがこれからも、祈りの場であり続けますように願い祈っております。      (支部長 治子修女)

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