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人権問題・正義と平和・青年担当者合同協議会を終えて
管区人権問題担当 司祭 パウロ 濱生正直

 各教区に置かれている「人権問題」「正義と平和」「青年」の担当者が一堂に集まり、合同の協議会が2003年7月20日〜
22日、東京・在日本韓国YMCAを会場として開催されました。人権問題担当者は8教区、正義と平和担当者9教区、青年担当者は6教区の出席者で、全教区からの参加者が得られた協議会でした。

第1日目、「互いに知り合う時間」として自己紹介を行いました。その中で「何故、担当者に選ばれたのか」を語ってもらいましたが、「教区の組織の中でかかわりのある委員会に所属しているから」と「教区の主教・常置委員会からの任命があったから」が大半でありました。組織のしっかりしている聖公会らしい選出方法だと思いますが、日常性の中からこの人をという選び方をしていかないと、運動体としての広がりがなくなるような気がしました。(決して今回選出された方々が不適任であると思っていません。)

そして、各担当者が、その担当で何をするのかが明確でなく戸惑いを感じていました。2日目の分科会で説明をしていきましたが、日本聖公会総会や主教会で決められてきたことが正確に伝達されていないことが明らかになっていました。正規の報告書ですべての人に伝わっていると思いがちですが、きめ細かな配慮をしていかねばと考えさせられました。

人権問題担当者が、管区ならびに教区に置かれるようになりましたのは、1996年に開催されました第49(定期)総会における決議第28号「『中川差別発言』に関する日本聖公会主教会総括を承認する件」ならびに決議第29号「管区に人権問題担当者をおく件」によってです。中川差別発言があって13年が過ぎ主教会は総括をします。主教会は日本聖公会が差別体質であることを認め、これを克服するために6項目を挙げ実施することを提案します。その中に人権問題担当者を置くことが明記されています。詳細は第49(定期)総会決議録あるいは『「中川差別発言」総括報告書』をご覧ください。
 
 正義と平和担当者と青年担当者が、教区に置かれるようになりましたのは次の経緯からです。2000年に開催されました第52(定期)総会決議20号「日本聖公会管区機構試行に関する件」によって、総会で立てられていた委員会(学生青年運動協力委員会、訓練計画委員会、部落差別問題委員会、日韓協働委員会、天皇制・靖国問題委員会、「正義と平和」委員会)が見直されるようになりました。その結果、2002年に開催された第53(定期)総会決議第42号、第43号で、正義と平和委員会と青年委員会が設置されます。両委員会の活動が管区レベルにとどまることのないように、教区や教会との連携をとることが大切であると主教会に要請をし、主教会が承認をし立てられたものです。

 成立の経緯や目的の異なる担当者が一堂に集い、多額な経費と貴重な時間をかけて話し合いをすることに意義があったのかと問われるならば、私見ですが「大きな成果はなかったが、この機会しかなかった」と思っています。今回の協議会は「顔つなぎ」「次へのステップ」を大きな目的としていました。

私自身、九州に住んでいて日本聖公会全体のことに疎い者ですが、担当者の方々が若く、住んでいる場所で活動していることを知らされ、元気付けられた思いです。と同時に、教区間では取り組みの温度差が大きいことも知らされました。

「今後1年に1回<取り組みのチェックとを分かち合い><各教区の取り組みの情報交換>を行う必要がある」という強い意見が出ていました。他には、地域ブロックで学びの会の企画をしては(既に行われている企画に参加する)、ネットワーク作りを、正義と平和担当主教・青年担当主教を置く、という意見も出ていました。今後、大いに検討していかねばならない課題だと思われます。

喜ばしいこととして、この協議会を機会に、教区内で担当者同志が集まって、人権、正義、平和、青年について検討している教区が数教区出てきたことです。

今回の協議会での特徴は、時間をかけて聖書の学びをしたことです。『小さくされた者の側に立つ神』『小さくされた人々のための福音』等の著者である本田哲郎神父を講師として迎えての学びでした。本田神父の指摘は「福音の視点は社会の底辺にすえられていた。現在のキリスト者が、生活を社会の底辺に移すことは出来ない。底辺に立つ人々と連帯することによって、ある程度視点を共有することが出来る。底辺に立つ人々から教えてもらい、そこから判断して行動していくことが大切である」でありました。

小さくされた者の側に立って(底辺に立つ人々と連帯して)聖書を読むことによって、今までの聖書理解とは異なることに気づかされた聖書の学びでした。

キリスト者の差別克服や被差別者の人権回復の運動は、人道精神や博愛精神からの社会運動でも政治的な社会革新運動でもないのです。キリスト者が拠って立つところは「聖書」です。視点を変えて聖書をしっかりと読み、イエスの望んでいた生き方、イエスを信じて生かされた人々の生き方を見つめながら、今生かされている現実に目を据え、自分で出来ることをやるしかないのです。

「人」の「為」は二つの字を合わせると、「偽(いつわり)」になります。長い間ボランティア活動をされている方々の口癖は「わたし自身が、教えられている」という言葉です。底辺に立つ人々と連帯し、教えていただきながら、教会が変革していかなければ、教会は埋没していくのではないかと思われます。

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